今日はトレーナーとの筋トレの日だった。
一時間、みっちり腕だけを集中して鍛えた。
腕は本当に苦手で、女子が扱う重量でもきつい。
しかし、トレーナーは容赦なくガンガン追い込んでくる。
右手を鍛えている時にどうしても挙がらないので、
左手で支えようとしたら、バシン、と手を払われた。
大した重量も挙げてないのに「うう、ひいぃ、死ぬーっ」
と呻きながら、ひたすら耐え続けるドMなボク。
近くでトレをしていた、マッチョなおっちゃんから、
「なんか、お産してるみたいやなあ」と言われた。(笑)
今日のトレがあまりにきつかったので(マジで腕はイヤ)
スタジオにヨガマットを敷き、ストレッチがてら、
仰向けになってぼーっとしていた。
少し離れたところでは、女性が二人、鏡に向かって、
音楽に合わせながらステップの練習をしている。
トレをした肩と両腕がパンパンにパンプして、ヤバい。
体が熱く、心臓がバクバク鼓動している。
瞬間、
この世界は自分が作った自分の世界だ、と思った。
自分に見えているもの、自分に聞こえているもの、
身体の感覚、全部が自分の内部だ、と感じたのだ。
広大な宇宙に豆粒のような自分の身体がポツンとあり、
その世界の中を、身体機能を駆使しながら、
死に物狂いで生きているのではない、と解かる。
まさに自分の心の中で〝恐怖の〟夢をみているのだ。
全てが自分の内部で起こっている夢だ、という感覚。
前職ですったもんだやった上司や同僚達も、
瞑想する僕の隣でステップを踏んでいる女性も、
容赦なく追い込んでくるトレーナーも、全部自分だ。
そう考えると、世界は内側へ閉じられた夢なので、
自分が何をしてほしがっているか、自分の本音は何か
を知るには、他者の言動を観察すればわかる。
例えば、仕事上すごく気を遣う人が現れたとして、
それは、本音の自分が表面の自分に対して、
もう少し気を使ってくれよ、と言っているのである。
もっとちゃんとしろよ、と責められたのなら、
もっとちゃんと俺と向き合ってくれよ、
と本音の自分が言っている。
これはもう、面白いくらいに、相手が放つ言動が、
自分が自分に言っている言動とリンクしている。
しかし、これが自責型のコース兄弟だと、
なんか言われた⇒ムカッ⇒憎悪した自分に罪悪感⇒
でも聖霊がいる⇒大丈夫⇒あの人も愛で神の子だ
と、ムリクリ神へもっていってフィニッシュさせようとする。
相手の言動は自分への要求だ。
自分に意地悪するな!
自分にパワハラをするな!
他人に気を遣うのなら自分に気を遣え!
他人に謝るくらいなら、自分に謝れ!
人にやってはいけないことを、自分にするな!
自分の声を聴き、自分をいたわり、慈しむのだ!
ある意味、他人の声を自分に対する声として認識し、
その声の通りに愛で満たしていれば、
何があっても大丈夫なはずである。
なぜなら、ここは自分が作っている世界だからである。
自分なんていないのに、
なんでそんなに自分自分、というのかについては、
〝神を体験する〟ことにも関わることなので、
次回、じっくり述べさせていただきたいと思う。