やっと一回目の授業実習が終わったのだ。
僕の持ち時間は30分、台湾人と香港人とアメリカ人
の生徒さんに「~だったら、…します」
といった、仮定条件の日本語を実際に教える。
外国の生徒さんたちが前の席にいて、
評価する先生たちが後ろの席で授業を見ている。
外国語も、未習の日本語も一切使ってはいけないので
簡単な語彙だけで文法を理解させなければならない。
「先生はサッカーが好きです。毎日サッカーをします。
昨日は晴れでした。サッカーをしました。
今日も晴れでした。サッカーをしました。
明日は雨が降りますか?わかりません。
明日、雨が降ります。サッカーをしません。
雨が降ります⇒雨が降ったら、サッカーをしません」
を、絵カードや動作や単語カードを交えて説明する。
その後、他の文に置き換えたり、会話練習をしたりして、
生徒たちにこの構文を定着させるのだ。
ものすごく緊張したが先生の評価は非常によかった。
何より、発話がとても明瞭で、一語一語をはっきり、
強調して話せるのは一種の才能だ、とまで言われた。
これは、自分が長年いろんな語学を学んできたので、
先生に普通のベタな外国語で話されると、初級者は、
全く聞き取れないことを知っていたからなのだが、
他の人を見てみると、未習の語句を連発しながら、
普通に日本人と会話するような感じで教えている。
中には、関西弁のイントネーションで授業していたり…。
でも本人は、それに全く何の違和感も持っていない。
決して、驕り高ぶった気持ちから書いているのではなく、
この時、僕の場合、何かを習得しようとする際に、
相手が言っていることの真意をすばやく理解し、
こうすればそこへ到達できる、というようなことが、
〝無意識〟のうちにできていることに気づいた。
アンフィニの統合にせよ、ヴィパッサナー瞑想にせよ、
奇跡講座にせよ、悟りにせよ、学ぶ時に、
その真意をすぐに察することができてしまうのだ。
それで、やってみると、その通りの結果が出る。
アンフィニでは台湾で作家デビューに至り、
ヴィ瞑想では、初めて兄貴の声を聴き、
悟りでは、あるマスターから決着がついた、と言われ、
奇跡講座では、ついに兄貴までが顕われた。
それで、何で香港さんだけ、と言われたりするのだが、
逆に、なんでその通りにやらないの、と思っていた。
僕は、全てを、
無意識のうちにやって(やれて)いただけなのだ。
言い聞かせの赦しをしない、自分を責めない、
自分を褒めろ、とこのブログで書きまくってきたが、
それでもできない人の気持ちに、
ちゃんと寄り添えてなかった。
本当に恥ずかしいと思う。
そして、ごめんなさい。