👆 今日は京橋の〝とも吉〟で食事
大好きなウナギのサンドイッチ
ここのところ、
〝神の無罪性〟について考えている。
どんなに罪悪感を抱かせるようなストーリーが、
この夢の世界で展開されていたとしても、また、
どんなに惨めさや後ろめたさを感じていようとも、
それでもやっぱり罪なんて犯せていなかった、
有罪だったことなど、ただの一度もなかったことが、
体感として、信じられるようになってきた。
👆 ここの豚の角煮は絶品
じゃあどうして、本当かどうかもわからない無罪性を、
ここまで信じることができるようになったのかというと、
奇跡講座のテキストにそう書いてあるから、ではなく、
自分は今夢を見ていて、本当は何も起きておらず、
そもそも罪悪などなかった、ことに気づくと、
なぜかとても〝安らかな〟気分になれたからだ。
夢の現実で、たとえどんなことが起こっていようと、
それは、一瞬現れては消えてゆく妄映でしかなく、
本当の自分である兄貴に100%委ね切ることで、
その夢を終わらせることができる、
ということに思いが至った瞬間、
大きな安堵を感じるとともに、優しさというか、
すっごく救われた気持ちが込み上げてくるのだ。
そして、この何とも言えない癒された感じこそが、
真実の感覚であり、帰るべき場所の記憶だった、
と、理解できた。
これは、誰々が言っているから、とか、
理論としてナンチャラ、とか、そういうことではなく、
ああ、そうだった、と忘れ去られていた記憶が、
思い出されてゆく感じ…。
👆厨房ではベトナム人の女の子が働いていた
僕の生徒達もこんな感じで頑張ってるのかな
とはいっても、僕もまだまだ、自分が無罪で、
父から完璧に愛されている存在だ、ということを、
すっかり忘れて、夢のストーリーに埋没してしまい、
あわてて思い出す日々ではあるのだが…。(笑)
8年くらい前に『断固三兄弟』という記事を書いたが、
当時はまだ、
必死に自分に言い聞かせるだけだったその事実を、
いま、本当に感じながら生きはじめている。
👆 締めは美味いに決まっている〝鯛茶漬け〟
と、昨晩、すっごくリアルな夢を見た。
ありとあらゆる人から総スカンを食らう夢…。
コース兄弟たちとの集合場所へ駆けつけてみると、
みんな僕を置いて、一足先に行ってしまっていたり、
以前の職場で、同僚全員からシカトされていたり、
ふらりと入った店の店員からも邪険にされたり、と、
まあ、夢なので支離滅裂ではあるのだが、
すっごい悲しい気持ちで目が覚めた。
目が覚めた瞬間は、まだ夢だという自覚がなくて、
自分はどんな悪いことをしたのだろう、と考えた。
が、すぐに、たとえどんな夢を見ていようと、
神の子の無罪性は変わらない、ということを思い出し
ホッと、安堵のため息をつき、大きく伸びをした。
👆 店ではカウンターに座るのが好き
と同時に、自我があがいている、と思った。
自我は僕に、
本当は何者なのかを知られては、絶対に困るのだ。
これからも、自我はあらゆる幻想を見せてくるだろう。
でももう、恐れることはない。
〝信じない、同意しない、採用しない〟
〝離れてない。起こってない。だから罪はない〟
〝自分はいない。他者もいない。だから世界はない〟
と、断固三兄弟で、迷うことなく進んでいく。