👆 冷凍庫で冷やしたラムをロックで飲むのが好き
〝天国へ帰るためにあなたは何もする必要がない〟
という言葉を、コース兄弟なら、
一度や二度は聞いたことがあるだろう。
しかし、何もする必要がないのであれば、
デイビッドのエクスプレスセッションも、
ワプニックの勉強会も、ワークブックの実践も、
奇跡講座のテキストすら必要ないはずである。
何もせず、聖霊の導きにただ従う、と言ったって、
導きに従う、という行為を〝やって〟いる。
そのままで何もする必要なんてない。
真実だ。
そうなのだ、奇跡講座がなくても夢は終わるのだ。
なのに、どうして奇跡講座を学びながら、
赦しだあ、今この瞬間だあ、献身だあ(笑)、
と、なんじゃかんじゃやっているのかと言うと、
そこには〝時間の短縮〟があるからだ。
職場のオフィスの隣のデスクに座っている人だって、
何もしなくてもいつかは故郷へ帰還する。
ただその〝いつか〟は永遠に近い時間を意味する。
そして、それらの時間を短縮するための手段として、
〝赦し〟がある。
なのでもし、時間の短縮の認識なしに、
夢の現実に起こってくる様々な問題に対して、
「わたしはすでに神から愛されているので大丈夫」
「何が起こっても、私は何もする必要はありません」
とやっているのなら、それは言い聞かせでしかない。
そして、もし、時間の短縮を真に望むのであれば、
そこのところの〝すりかえ〟をしていないかを、
ようく見ていく必要があると思うのだ。
まあ確かに、世界は夢で、私は何もする必要がない、
という言葉を聴けば、すっごく救われた気分になり、
意識が広がってゆくような、安心した気持ちになる。
しかし、それは〝体験〟ではない。
何て言えばいいか、体験からくる何もしない、は、
毎日、なんやかんや、いろんなことをしていながら、
それを〝やっている〟と智覚されていない、というか、
怒っていても、笑っていても、やはり何もしていない。
いい例が思い浮かばなくて、ごめんちゃい、なのだが、
トイレへ行くのとか、歯を磨いたりするのとか、
何の知覚もなしにやっていると思うのだ。
「私は今から、おしっこを、するの、だあぁーっ!」
と毎回決意を新たに、トイレへ行っていない筈である。
何もする必要がない、とはそういう感じなのだ。
というわけで、
なんだか、訳が分からなくなってきた。
おやすみなさい…。