(前回の記事からの続きである。)
じゃあ、その0.00001秒を日常レベルで見てみると、
ただスマホが見え、俺のスマホだという思いがあり、
ただ田中部長から着信が入っているという認識があり、
うわあ、嫌だなあ、という感覚だけがある。
正確な表現ではないけれど、見えて、思えて、
わあーっとなって、消えて行って、終わり、みたいな…。
0.00001秒(何度も言いますが数字はテキトーです)
を兄貴に差し出して、再度意識が戻ってきたとき、
すでに世界が知覚から智識へ入れ替わっている。
見え方や感じ方が変わるとか、悩みや心配が消えた、
というような、個の自分がいる前提の見え方ではなく、
なんていうか、同じなんだけど、違ってしまっている。
これは私のスマホだ、あ、救急車の音だ、と、
言葉による解釈で物体の中に幽閉していたものが、
解放を起こし、どひゃあ~、となっている感じ…。
(擬態語使いすぎ、ごめんなさい)
要するに、
もう、解釈だけが、唯一にして最大の問題だった。
もっと言うと、その解釈を自分でやっている、
と勘違いしていることが、悲劇のもとになっている。
だがこう書くと、解釈をやめようとか、コース兄弟なら、
自分でやらずに、全て兄貴に委ねて導きに従おう、
という風になってしまうのだが、そうではない。
解釈すら自分でやってない。
自分でそう思おう、と決めて、それを思ってない。
今日ジムに行こうかな、でも雨降りそうやしな、
どうしようかな、と迷った挙句、やっぱり行くと決めても
迷う前に、決める前に、思いが先に出てきている。
思いが出てくる発露をようくようく見たら、
自分なしで思っていることがすぐにわかる。
見ようとしなくても見えるのと同じで、
思おうとしなくても、先に思えているのだ。
なので、
《神の使者》の中のアーテン/パーサが言っている、
未来は決まっている、というのはある意味真実だ。
起こることは、個の意識ではコントロールできない。
それがはっきりすると、
こんな世界、長居は無用や、となる。(僕の場合)
思う、という働きも、見たり、聞いたり、するのと同じ、
ただの肉体の機能のひとつにすぎないのに、
思うことを〝わたし〟にしてしまっている。
僕の場合は、そのことを先ず頭で理解できたあと、
だんだん、今この瞬間のみに留まれるようになった。
そうして、完全に静まった一瞬のあと、
ハートがわわわ、と上がってきた。