見えているもの、聞こえているもの、匂っているもの、
味わっているもの、感じているもの、といった、
知覚に委ねきって(渡しきって)じっとしているとは、
どういうことなのかと言うと、
これはペンだ、彼は山田さんだ、あれは通天閣だ、と、
具体的に解釈する前にある、抽象的なものを、
実態が明確でない印象のままに観る、ことである。
で、抽象的なものを観るとはどういうことかというと、
説明できないものを説明できないまま放っておく、
その説明できない〝感じ〟のままでいる、ことである。
例えば、このチョコレートの味を説明しろ、と言われて、
甘くて、でもちょっと苦くて、香ばしくて、と説明しても、
甘さや苦さにも、様々な甘さや苦さがあるし、
じゃあ、香ばしいってどんな味?
と訊かれても、表現することは絶対に不可能だ。
味そのものを伝えることなど絶対にできないのだ。
それでも僕たちはそのチョコレートの味を智っている。
最愛のパートナーである山田さんがどんな人なのか、
説明しろと言われてもできないが、
本人の気質、本質、はちゃんと理解できている。
水色、赤、ピーポーピーポー、ニャーニャー、
運子の匂い、キャラメルの味、暑い、寒い、など、
それを相手が〝体験〟していなければ、
いくら言葉で説明しても理解は起こらない。
「ほら、水色だよ、青の薄いやつ!」と言ったって、
相手が水色を見て体験していなければ、
いくら説明しても理解できないのだ。
解釈をして言葉で表現される前の、
説明のしようもないけど解っているもの、
その色そのもの、その音そのもの、匂いそのもの、
味そのもの、体感そのもので〝放っておく〟。
放っておこう、とする自分の意識もなく…、である。
そうして、解釈が途絶えた0.00001秒の瞬間、
ハートが開いて、神の悦びが、ぐわああああーっ、
と駆け寄ってくる。(あくまで、僕の場合、である)
それが一瞬沈黙することであり、わずかな意欲であり
兄貴に委ねるということであり、聖なる瞬間と言える。
だが、そのためにはやはり、ちょこまか動かない時間、
静かにじっとしていられる時間、が必要になってくる。
しかし、仕事とか、子育てとか、趣味に没頭していると、
わかっちゃいるけど、またそのうち…、となってしまう。
勉強に集中しようとすると他の事が気になるのと同様
神に向かおうとすると、神以外の何かをし始める。
旅行や、リトリートや、趣味や、仕事に捧げても、
0.00001秒ですら兄貴には絶対に捧げないという…。
コース兄弟たるもの、そろそろ腹を決めるのだ!