フランクルは、自身の死生観を表現するために、
人の人生を砂時計に例えた。
砂時計の上の部分には、これからの未来があり、
そこには中心の狭い部分をすり抜けて、
下へ落ちるための砂が入っている。
砂時計の下の部分には、すでに流れ落ちた砂、
すなわち過去がある。
そして、中心のくびれた部分が〝今〟に当たり、
僕たちは常に、今という、このくびれた部分にいる。
僕たちは、ひとつひとつの砂粒を、
今というくびれを通して、過去へと流していっている。
そして、フランクルは、どのように砂粒を落とすかが、
その人の人生における決断を意味していると考えた。
フランクルは、
収容所のような、自由とは程遠い場所においても、
今この瞬間、何かを決断する自由がある、と言った。
誰も覚えていないような小さな小さなことでも、
今この瞬間をどう生きたかが、下側の砂粒として、
永遠に残るんだ、という考え方を示したのだ。
そして、今この瞬間瞬間をどう生きるかで、
落ちてゆく砂の質が違ってくる、というのだ。
なので、今見えるもの、今聞こえるもの、に対して、
どういった意味を持たせるかは自分にかかっている。
残りの砂が少なくなってきたとき、僕たちはたいてい、
空虚な思いにとらわれたり、不安に襲われたりする。
生きている人には、未来と過去があるが、
死んだ人には、過去だけがあり、それを恐れている。
フランクルは言う。
人は一瞬一瞬の行動により、
絶えず自分自身を作り続けている。
つまり、生きている間は、
その人の人間像は決して定まることはない。
そして、死んだときに初めて、全てが定まる。
人間は死ぬことで初めて世界に生み出され、そして、
自分自身は死ぬ瞬間に初めて出来上がるのだと…。
ここからは、僕のただの妄想なのだが、
こうして全ての砂が落ち切った砂時計が、
今度はくるりとひっくり返って、新たな人生が始まる。
人は今世で最も憎んた者に生まれ変わるという。
そういう意味で、今の自分は前世で憎んだ自分だ。
だからこそ、他者に与えることで、自分を赦すのだ。
そうすることで、何度も違う人生を繰り返すうち、
砂は昇華されて少なくなってゆき、
最後は、この砂時計の輪廻から抜け出し、
永遠に夢の境から故郷へと帰ってゆくのだろう。