👆 夏休みの間は、酷暑を避けるため、
週3くらいの割合で、パルコの上にある
神乃珈琲に避難していた。
くどくどと同じことを何度も書いて申し訳ないが、
「私のあの一言で、彼は気を悪くしたかもしれない」
「あの時、私が余計なことをしたから事態が悪化した」
「あいつは、いつも私に偉そうな態度を取ってくる」
「あの時ああしておけばこんなことにはならなかった」
などなど、頭の中に〝ふっ〟と浮かんできた想いを、
あたかも自分が思ったように捉らえて憂鬱になり、
なんとかしなければ、と、躍起になっているが、
これ全部、自分の頭の中だけで起こっている。
今この瞬間に展開されている現実といえば、
部屋があり、ペットの犬が吠え、夕食を食べながら、
Tverでドラマを見ている、ただ、それだけである。
現実は意識とは関係なくただ在り続けているのに、
頭の中は、過去に起こったことの憤りや、
未来に起こることに対する様々な焦りの思いで
がんじがらめになっている。
そして、頭の中だけに湧き起こっている想いを、
自分の人生に起きている出来事だと勘違いしている。
👆 映画館がある階の上にポツンとある神乃珈琲は、
いつ行っても人が少なく、穴場すぽっとである。
ただ、お客はいつも、僕以外、全員中国人!
頭の中に〝ふっ〟とでてくる考えとは何の関係もなく
目の前に展開されている、今この瞬間の姿だけを、
頭の中のフィルターを通さずにダイレクトに見た時、
ここが天国そのものだったことを智る。
👆 このホットケーキが神
よく、禅の僧侶、悟り系の覚者、非二元のリーダーが、
悟りや一瞥体験について話したりしているが、
その話の中に、神や、愛や、悦び、が出てこないのを、
僕はずっと不思議に思っていた。
彼らが話すのは、苦しみもない代わりに歓びもない、
静かで、平安で、救われ切った境地である。
しかし、僕が感じているのは、無条件に愛されている
という、なんとも言えない悦びの感じだった。
この何とも言えない悦びの感覚を、
ある人は、好きな歌手の歌を聴くことを通して、
またある人は、ドライブや趣味の山登りを通して、
体験していると思うのだが、
ただ、それらの悦び(安らぎ/自由/癒し)の感覚は、
神の愛そのものではない、ということである。
神を受け入れるための呼び水でしかない。
そして多くのコース兄弟が、呼び水ばかりやっている。
神を〝私の大好きな歌手の歌〟にまで歪めてから、
「神大好き!神を感じている!」とやっている。
ある意味、とてもゴーマンなことをしている。
逃げたくなるような思いを、ただの思いとして、
見えている景色を、ただ見えている景色として、
自分からは一切何もせず、向き合ってみる。
これも神の愛の顕れなんだよね、と言いながら、
大好きな歌手の歌や、ドライブや趣味の山登り、
といった〝日々の楽しいこと〟に逃げずに、
チョクで静かに父と向き合うのだ。