👆 お月様が街灯のように光ってた
抵抗をやめて今この瞬間を全受容する、というのは、
結局、自分の人生に対しての大いなる信頼なんだ。
自分を信頼できずに、全てを受容するなんて無理だ。
ある意味、人生の営みって、神の活動なのだと思う。
自分の人生を100%信頼して受け入れるとは、
瞬間瞬間、目の前に顕れては消えてゆく兄弟たち、
地下鉄で乗り合わせた見知らぬ人たち、会社の同僚、
店の店員さん、友達、家族、二度と会わない人たち、
または、持っているモノ、よい状況、悪い状況、お金、
を完璧に信頼し、受け入れ、委ね切ることなんだ。
たとえそれらが、
どんなに自分にとって都合の悪いものであっても、だ。
世界は夢なので、本当は何も起こってはおらず、
人生なんてもともと幻想なので何の問題もない、と、
このブログでも言っていたが、少々誤解がある。
正確には、夢で、幻想なのは、人や、モノや、状況を、
自分で何とかしようとする、私の活動のことを指す。
例えば、
お気に入りの店で、お気に入りの珈琲豆を買い、
これがベストだ、と思った淹れ方で珈琲を淹れる。
そして、これまた大好きなカップに珈琲を注ぎ、
それを味わいながら、この味最高―っ、とうなづく。
この時、自分がこの味を生み出した、と思っているが、
その味そのものは絶対に自分で作り出せない。
珈琲を淹れるまでの過程も、そうしよう、という思いが、
ふっと出てこない限り何もできないようになっている。
神の活動を自分の手柄にして喜んでいるのだ。
よく見ればわかる。もう、一事が万事、それである。
これをやったら、自分の問題が解決するんだよね、
こうしたら、うまくいくんだよね、でやってる人生が、
幻想の人生、であり、夢の物語、ということである。
今この瞬間の人生を信頼する。
態度の悪い店員がいたら、その店員に委ねる、
手元に千円しかなかったら、その千円を信頼する、
病気になったら、症状や医療を全受容で受け入れる。
結果、気分が悪いまま店を後にするかもしれないし、
千円が0円になり、ホームレスになるかもしれないし、
病気の末、死んでしまうかもしれない。
必ずしも、自分が思っているような都合の良い展開
にはならないかもしれない。
でも、それで大丈夫なのだ、と智っている。
(まあ、実際にはそういうことにはならないのだが…)
思考をやめるとか、無意識になる、のではなく、
やってきた世界の光を意識が全受容で見つめると、
世界は神の営みとなり、兄弟は神の使者となる。