👆心斎橋のアメリカ村で発見!
今この瞬間に抵抗しない、解釈をやめる、
見えているもの、聞こえているものに委ねる、
0.00001秒を兄貴にささげる、一瞬沈黙する、
そのままを全受容する、言葉では表現できない
飴ちゃんの味が神の想いだ、などなど、
様々な言葉を駆使して、不可知の方向を指してきたが、
(神自体は不可知なので、絶対に説明できない)
それは決して、抵抗や解釈をやめよう、とか、委ねよう、
捧げよう、沈黙しよう、受容しよう、ということではない。
僕たちにできるのは、ただ、
出てきたら出てきたまま、思えたら思えたまま、
痛かったら痛いまま、気持ち悪ければ悪いまま、
いじらず、考えず、何もせずにいることだけだ。
ひとたび静かに自分に向き合おうとすると、即座に、
どわーっと雑念が出てきて苦しくなったりする。
あれこれ考えが浮かんできてやかましくて仕方ない。
とてもじゃないが、放っておくことなんかできない。
しかし、それそのままで、オーケーなのだ。
雑念、苦しいぃーっ、あの時のあの一言、ムカつくぅ、
仕事の、このことあのこと、うわあ、やかましいぃーっ、
と、のたうち回ったまま、放っておいて完璧なのだ。
それを感じようとしたり、安らぎに変えようとしたり、
意識を今この瞬間に戻したりするから苦しくなる。
なぜなら、それは、ふっと出てきた思いにすぎず、
消えて行っている姿であるから、大丈夫なのだ。
禁断症状に耐えられず「ヤクをくれーっ!」と、
じっとしている居心地の悪さから逃げるように、
車を飛ばして出かけていって、そこに悦びを感じたり、
好きな歌手の歌を聴いて、それに癒されたりして、
その心地よさを〝ああ、神の感じ〟とやってしまうが、
車を飛ばして悦びを感じたり、
好きな歌手の歌を聴いて癒されたり、というのは、
〝自分の好きなこと〟にすり替えて神を感じている。
ここで、何が起こっているのかと言うと、
神そのもののに触れた悦びを、
車を飛ばして「ああ楽しい!気持ちいい!」
好きな歌手の歌を聴いて「感動!愛だ!神だ!」
にまで歪めて感じている。
神そのものに触れるのは怖くて逃げだしたいけれど
車や、バイクや、好きな歌手の歌ならオーケー、
というわけである。
なりたてコース兄弟、ならまだしも、
10年選手のコース兄弟であるのなら、さすがにもう、
そんな解りやすいすり替えはやめようよ、という話だ。
思考が静まらなくても、じっとして居心地が悪くても、
思考の雑音がひどくても、身体が休まらなくても、
じっと、そのまま、何もせずに放っておいていい。
この夢の世界を後にして、二度と戻ってこない。
兄弟!
今世の目的を決して忘れてはいけないよ。