秋が深まりつつある今日この頃(ほんまか?)
今の僕は、生みの苦しみの真っ只中にいる。
どうしても表現したい題材があるのに、
その内容があまりに濃すぎて(深すぎて?)、
どう表現すればいいのか見当もつかず、
毎日、ウンウン唸り続け、のたうち回っている。
最初、ひとりの主人公の視点から書き始めたのだが、
どうしても、主人公のキャラが立ってくれない。
一章ごとに主人公が異なるオムニバス形式で書けば、
ストーリーは体裁よくまとまるのだが、
中身すっかすか、登場人物もぺらっぺら、
なものになってしまう。
この作品を書くために、仕事までセーブしているのに、
という焦りがまた、びゅんびゅんに拍車をかける。
と、そんな中、ある啓示が立て続けにきた。
夕飯を食べながら見ていた、NHKプラスの番組、
〝あの人に会いたい〟の中で小説家平岩弓枝が
語っていた言葉が、バーンと胸に刺さったのだ。
〝小説と言うのはね。物語を書くんじゃないんだよ。
人間を書くんだ。人間の生き様は一人一人ちがう。
世の中の歴史に残らなかった平凡な人の中にこそ
目を見張るような非凡な生き方があるんだよ。
そういうすごい生き方が見えるようになったとき、
物書きの目は、すっ、と開かれるんだ!〟
ああそうか、僕は物語を書こうとして、
登場人物を〝コマ〟のように扱っていた。
でも、人間を書くってどういうこと?
そう思っていた時、
突然、朝起きる間際の、夢うつつの状態の時、
宮本輝の『星々の悲しみ』の出だしの言葉が、
これまたバーンと鮮明に出てきた。
〝その年、僕は百六十二編の小説を読んだ。
18歳だったから1965年のことだ〟
あくる日『星々の悲しみ』を取り出して読んでみた。
短編小説なので1時間ほどで読めた。
彼は徹底的に〝人間〟を書くことで、
人、物、事、風景、あらゆる変化するものの中から
絶対に変わらないものを炙り出している。
それは僕に対して「おのれ自身を偽らずに書け!」
と言っているような気がして、はっと身震いした。
〝私小説〟なんて思いもしなかった。
そう言えば、僕の敬愛する張賢亮先輩の
『男の中の半分は女』も私小説だった。
〝私はこんなにエロいです。これが私です。以上!〟
カッコつけず、人にどう批評されるかも気にせず、
おのれをさらけ切った小説だったからこそ、
僕はこの小説に魂を揺さぶられたのだ。
ようし、俺もいっちょやったるでー!
先輩方には負けへんでー!