もう、あらゆる人が兄貴に見える。
いや、見える、のではなく、兄貴そのものだ。
もっと言えば、兄貴そのものが自分だと理解している。
さらに言えば、兄貴そのもので〝しかない〟。
さらにさらに言えば、名付けられる何か、も無い。
自分、他人、木や花や建物、全てに実体はなく、
この世界は寝ている時に見る夢と同じで幻想だ、
と解かって、実相が確かになるのではなく、
名付けられる何かさえない、ことを真に悟って初めて、
世界が夢で本当に無かったことが明らかになるのだ。
よく、兄貴のガイダンスに従う、兄貴に聞く、
兄貴に祈る、兄貴に委ねる、兄貴と一緒に見る、など、
奇跡講座の学習会やコース兄弟の間で、
様々な実践が行われているが、兄貴に聞いたり、
祈ったり、委ねたりした結果、こうした方がいいよ、と、
何かの導きが来たというなら、それは兄貴ではない。
自分で、ただ、思いついただけだ。(笑)(爆)
そうではなく、目の前に見えているその同僚、
その友人、その家族、その店員、そのおっさん、
電車で乗り合わせたその誰かが言っていること、
やっていることが兄貴のメッセージである。
しかし、こう書くと、兄弟の言動を見て、
これはどういうメッセージなのだろう、と探ってしまうが
そうではなく、見えてるまんま、聞こえているまんま、
それですでに兄貴そのものなので、
それ以上何も勘ぐる必要がないし、する必要もない。
何かすることがあるとすれば、今この瞬間に在って、
ただ、見ていることくらいか。
で、こう書くとまた、本来、言葉や行動で、
ちゃんとアクションを起こさねばならないことでも、
自分は何もする必要はない、と放っておいたりする。
恐怖から何もできない自分の方便にしてしまうのだ。
僕たちは、目で見えたり、耳で聞こえたりした、
他者の言動や外界の出来事に反応して、
〝私〟が何かを思っている、と勘違いしているので、
起こったことからくる兄貴のメッセージに対しても、
じゃあ〝私〟はどうするべきか、とやってしまう。
いや〝私〟は何も思えていない。
自然にふっと出てきた思いを捉えて、
私が思った、と勘違いしているに過ぎない。
勝手に出てくる思いが、自分で思ったのでないのなら、
自分なんてどこにもいないことなんて、すぐにわかる。
これはきちんと言った方がいい、という思いがあるなら
それが兄貴の思いであり、やった方がいい、という
思いが出てきたら、それが何もしない、の意味となる。