👆新世界の総菜屋さん
なんか、台湾にいるみたい
あなたは、
誰かを本気で殺したいと思ったことがありますか、
と訊かれたら、ほとんどの人はノーと答えるだろう。
ムカついたり、イラついたり、憎んだりとかはあっても、
本当に殺したい、とまでは思わないよ、と…。
だが、満員のバスで、おばあさんが目の前にいるのに
スマホばかり見て、席を譲らない大学生を見たとき、
上司から、ちゃんとやってよ、とダメ出しされたとき、
グループチャットで、自分だけスルーされたとき、
(よい例が思いつかなくてスンマセン!)などなど、
日常で、なにこの人、とちょっとした怒りに震える時、
意識の裏では〝こいつ、マジで死ねばいいのに〟
という〝殺意〟が走っている。
要するに、僕らは毎日誰かを殺したいと思っている。
そしてこんなとき、僕たちコース兄弟は、神を殺した、
という罪悪感を兄弟に投影していたことに気づき、
その〝思いこみ〟を兄貴のもとへ運ぶことで、
それは起こっていなかったことを理解してゆく。
しかし、ようく、ようく見て見ると、
死ねばいいのに、という思いが湧いている時は、
死ねばいいのに、という〝ひとつ〟の思いしかない。
死ねばいいのに、を赦そうと思うと、
死ねばいいのに、と思っている今その瞬間に、
その思いを兄貴に委ねなければならないのだが、
死ねばいいのに、と、それは起こっていなかった、を、
同時に思うことはできないから、赦しは不可能となる。
訂正を受け入れ、赦そうと〝思った〟ときにはもう、
死ねばいいのにという思いは跡形もなく消えていて、
「兄貴~!この間違った思いを訂正してください!」
とやった時にはもう終わっているのだ。(笑)
つまり、自分でその思いを引きずりさえしなければ、
何もせずとも、
そのままで勝手に赦されていっている。
もし、なにかするべきことがあるとするならば、
思いが現われた時点ですでに救われている、
という事実を一瞬観て、
その思いを見送ることだけである。
赦そうが、手放そうが、統合しようが、ストーリーだ、
とかなんじゃかんじゃ言ったところで、
後の祭りなのだ。
絶対に二つの事を同時に思えない、
ということに救われる。
それが赦しであり、手放すことであり、統合となる。
なぜなら、自分は何ひとつ、
自分で何かを思ったことがないからだ。