👆 梅田大丸の6階で半日遊ぶ
目、耳、鼻、舌、脳、が首から上にあるがゆえに、
見えているもの、聞こえているもの、
匂っているもの、味わっているもの、感じているもの、
自分というもの全てが首から上で完結している。
すなわち、首から上に世界が乗っかっている。
自分無しにチョクで〝実相〟な感じ。
このブログを見に来てくださっている読者の方々は、
多かれ少なかれ、
スピに興味がある人たちだと推測するのだが、
そんな、スピ経験豊富な兄弟たちが、
冒頭のような文を読んだ時に起こる反応は、さしずめ、
「これは何系のジャンルに属するスピだろう?」
「そういえば、悟り系のあの人もそんなこと言ってたな」
「自分が信じているスピとは、こことここが違うな…」
といったところだろうか。
すなわち、探求をしてしまうのだ。
いや、探求上等、大いにしていいと思うのだ。
僕だって、スピとは無縁のビジネスマンだったのに、
2011年、藤あや子の〝むらさき雨情〟を、
YOUTUBEで検索していたら、あやこつながりで、
関野あやこの動画がおすすめに上がり、
それを何気なく見たのが運のつき(笑)、
そこから僕のスピ人生が始まった。
バシャールのチャネリングをしていた
あやこさんのリトリートに、
香港から毎月のように参加し、
兄弟てっちゃんはじめ多くのスピ兄弟たちに出会った。
その後は、
非二元➡ハレ師匠(奇跡講座)➡ヴィパッサナー瞑想
からの、
ハッピーちゃん(引き寄せ系?)へと横道に逸れ(笑)
その後、
井上哲玄導師(曹洞宗/悟り)へぐっと渋く舵を切り、
突如として部屋に出現した兄貴を経て、今日に至る。
👆 ドラえもん、大好き!
ただ、僕の経験上、ひとつだけ言えることは、
探求は、自分で終わらせねばならない、ということだ。
なぜなら、何かスピ的な内容を学ぶ過程では必ず、
「あ、この人は本物だ!」と自分が信じる、
その筋のマスターから学ぶことになるからだ。
しかし、誰々さんは本物だ、と、信奉すればするほど、
探求は続き、探求が続く限り(絶対に)終われない。
言わば、統一教会の教祖を信じるのと、
奇跡講座を実践する誰かを信じるのは同じことなのだ。
どんなスピを信じようと、最後の最後は、
自分の中の神だけを信じるべきであり、
それを智るために探求がある、と思うのだ。
これは、他のことにも言えると思うのだが
自分より前に、誰かを立たせてはいけない。
また、悟ったかどうか、幸せな夢に至ったかどうか、
は、自分が信じる誰かに決めてもらうのでもない。
そして、今の僕は、
どのスピにも属していないし、誰をも信奉していない。
また、それでいいのだと思っている。
ただ、かつて教えを請うた〝師〟は大切にすべきだし
敬意をもって扱うべきだ、とも思っている。