香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神のまんま

👆 ライフの洋風幕の内弁当498円

   さらに30%引きの348円ってすごくない?

   香港だったら、1600円くらいはするよ

 

 

とある、非二元系ブログの中に、

 

「(悟った人生とは)自分の本質(空)を知りながら、

 

 個としての人生(色)を生きていく(ことだ)…」

 

という一文があったのだが、この文を見たとき、

 

本質を悟りながら、個も認めて生きる、なんて、

 

そんなことあり得るのだろうか、と思った。

 

作者が言う本質と呼ぶものが明らかになっていたら、

 

個としての人生なしでバーン、なはずなのに…。

 

敢えて、敢えて、敢えて、言うなら、

 

そのままの通り、が人生、なのにと…。

 

 

神を智れば、もう神そのものであるのだから、

 

神が何であるかは認識できなくなる。

 

よって、自分もわからない。

 

本質なんて絶対に分かり得ないはずなのだ。

 

なぜなら、

 

〝在る〟そのままでバーン、だから。(わからん)

 

多分、冒頭の非二元系ブログの作者の方も、

 

悟っていても、普通に個人の人生は続いてゆく、

 

という意味で言われたのだと思う。

 

僕のこの表現だって、絶対ズレてるし…。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

ただ、

 

嬉しいと感じたり、エクスタシーを体感したり、

 

心が震えるような愉悦を味わったり、といった、

 

言葉では絶対に表現できない感じを体感するとき、

 

僕たちは、同一の〝愛の感じ〟を体験している。

 

美味いものを食べて、美味しいーっ、という感じと、

 

セックスをして気持ちいい、という感じは、

 

本質は同じ〝歓びの感じ〟である。

 

ちょっと意識的に見てみれば、すぐにわかる。

 

そしてそれは、そのままの通りの、

 

ダイレクトな生活を通してなされている。