👆 一瞬顕われた見知らぬ夢の登場人物たち
本当は、会社の同僚や家族も、
スーパーですれ違う人と同じなのだ
ある平日の午後、ヒマだったので、
このブログの初期の記事を読み返してみたのだ。
中国の工場を閉鎖するにあたり、
工場の現地従業員を一斉解雇した時のことや、
新しい工場の建設地を探す行脚の旅の中で、
各地の党書記たちとの、契約を巡る攻防戦のこと、
また、会社内での、一癖もふた癖もある社員たちとの、
様々なすったもんだ、そしてそこには、
日々起こっては消えてゆく夢の事象を、
懸命に〝赦して〟いる自分の姿があった。
でも、これらの記事を読んでいて思ったのは、
このブログを書いていなかったら、自分は絶対、
その時その瞬間に起こった事象、または、
それに付随して湧き起こった瞬間の思いなどは、
記憶にも残ってはいない、という事実である。
つまり、その記憶を思い出さない限り、それは、
起こっていないのと同じことになるのだ。
👆 絶対に二度とない、この一瞬のこの風景
僕のブログでは、日々の出来事と、その時の思いを、
誰に隠すことなく克明に、しかも写真付きで、
詳細に表現してきた。
いま見返してみるともう、社内機密はダダ洩れで、
写真も、余程の事がない限りモザイクもかけない。
よくこれで見つからなかったな、とヒヤヒヤする。
(もし見つかっていたら、今頃、懲戒免職である)
そのなかでも、写真の威力は大きいと思う。
その一枚を見た瞬間、当時の事がぱっと理解できる。
そういう意味で〝その時の今〟を、
鋭利に切り取ることができる写真という媒体は、
時間の概念が伴う映像媒体以上に大きな威力があり
だからこそ、
ひとつの芸術になり得るのだな、と思った。
👇 絶対忘れてる記憶の数々
それにしても、記憶って何なのだろう?
このブログに書かれている記憶だって、
自分がそう思った、という記憶でしかないし、
他者から見たら、全く違って見えているはずだ。
なので、記憶が本当かどうかなんて知りようもなく
いたって個人的なものであり、よって事実ではない。
それで言えば、本当に全ては〝夢〟でしかない。
しかし、僕たちは、
それが本当に起こったこととして、日々生きている。
その時のその一瞬を切り取った一枚の写真を、
後生離さず、ずっと眺めながら、
「このときの、このことは、絶対に許せないーっ!」
と、事実ではないことを何度も思い返している。
思い出さなければ、それは無いのだ。
たとえ思い出したとしても、その映像に実体はない。
しかし、その瞬間に感じる言葉では表せない感じ、
感動、歓び、法悦感、などは永遠のものだ。
なぜならそれは、
共通した〝ひとつの歓びの感じ〟であるからだ。