👆 高さ1メートルの上がりかまちから撮影
高齢者には過酷な古民家のつくり
禅会の案内には、定員15名と書いてあったので、
当日はさぞかし、その道ン十年のすごい人ばかりが
参加されるのだろう、と、すごく緊張していたが、
実際には、広島から夜行バスに乗ってやってきた男性
(50歳/ラーメン屋店主/痩せてる伊原剛志/在家信者)
と、僕の二人だけしかおらず、逆の意味で緊張した。
ソファに座り、老師と面と向かって会話をする。
老師は、2年前に香港からの参加者がいたことを、
かすかに覚えていらして、その後どうですか、
と訊かれ、このブログに書いているような境心、
認識が落ちきった体験の後でもまだ、
苦しみとか、憎しみとかを感じている自分がおり、
それでも、今のありようのままに務めていると、
次第に、その感情さえも放っておけるようになって、
やがて、思いや感情も、肉体の機能でしかなく、
思いには何の実体もないことが明らかになった、
というようなことを話した。
老師は、その体験をつかんで、人々に語ろうとせず、
そのままのありようのまま進みなさい、とおっしゃった。
つかんだ瞬間、それは〝私の体験〟になってしまい、
そうなると、悟りそのものを生きることから
どんどん、ずれていってしまうのだ、と…。
そう言われた瞬間、僕の胸がドッキーン、と鳴った。
なぜなら、僕は、自分の体験を、このブログで、
おもいっきり語りまくっていたからだ(笑)(恥)(泣)
言葉であれ、文章であれ、語ろうとすると、どうしても、
〝自分〟というフィルターを通して語ることになり、
そうなると、真相からどんどんずれてゆくことになる。
そして、僕がそのような状態になっていることを、
老師は瞬時に見抜いていらしたのだ。
👆 井上邸は有形文化財に登録されている
まあ仕方がない。
この夢見から永遠にオサラバはしたいが、
悟りたいわけではないし、そもそも、
物書きに「語るな!」なんて酷、というものである。
こう書くと、
哲玄老師はとても厳しい人のように感じられるが、
悟りを開いた高僧であるにも関わらず、実際には、
偉ぶったり、気難しいところなど全くない、
僕みたいな素人も、笑顔で受け止めてくださるような、
とてもユーモラスで優しい方である。
午前中の三時間、老師とはほぼ1対1で話をした。
禅に関することの他、僕の仕事のことや、
香港でのことなども聞かれたので話した。
参禅した12月8日はお釈迦様が悟りを開かれた日
とかで、午後からは、プチ座禅をしたり、
般若心経を老師と一緒に読んだりして過ごした。
というわけで、とても楽しい一日だった。
※ZOOMでの禅会に何回か参加しなければ、
老師との対面接心は受けられません。
いきなり訪ねても老師には会えませんので
ご注意ください。
(ご高齢で体調も心配されます)