僕たちは、毎瞬毎瞬、様々な思いの中を生きている。
禿げたオッサンが目に入れば、山田部長だ、と思い、
ピーポーピーポー、が耳に入れば、救急車だ、と思う。
このワインまずっ、うんこの匂いくさっ、というふうに、
見ては思い、聞いては思い、味わっては思い、
匂っては思い、と、絶え間なく何かを思い続けている。
このように、僕たちは、五感が捉えた対象に対して、
どのように思うかを、自分が決めている、と思っており、
それを自分らしさ、または、個性だ、と信じている。
そしてこの、彼はこう思うが、私はこう思う、といった、
思い方の違いをつくることによって、自他を分離させ、
私とあなたは違う人間、という差異を成立させている。
また、お金が欲しい、人に愛されたい、といった願望も
突き詰めてみれば、満たされたい、安心したい、
という思いから来ていたりする。
要するに、これは私が思っている私の思いだ、
と錯覚しているので、出てきた思いも、自分の力で、
自分の都合の良いように〝思い方〟を変えられる、
と錯覚している。
👆 通天閣の色が赤に変わったよ!
しかし、
ぱっと目を向けた時に信号が赤だったら、赤なのだ。
それを、自分の力で青には変えられない。
これと同じように、そう思えたら、そう思えたのであり、
それ以外の思いには変えようがない。
なぜなら、その思いに気づいた時にはもう、
そう思えた後だからだ。
実際、
ふっと何かが見えてから、それを見た、のであり、
先に自分が何かを見ようとして、見えたのではない。
これと同様に、何かを思おうとして、思えるのではなく、
ふっと何かの思いが出てきたからそう思えたのであり、
自分で何を思うかは、自分でコントロールできず、
従って、それは〝自分が思った〟のではない。
肉体の外側に見えてくる物や景色が自分ではない
ことはすぐに理解できるのに、
内側に湧き出てくる〝思い〟が自分ではない、
ということはなかなか理解することができないのは、
思いの泡ぶくが出てくる元となっている意識が、
自我に占領されてしまっているからだ。
そして、奇跡講座の赦しの実践は、
私な度という実体がどこにもなかった、
ことがハッキリして初めてスタートできる。
ふっと何かが思えたら思えたまま、放っておけば、
それを自分が思ったのではないことが理解でき、
主体となる私なんか、どこにもいないことが判る。
このように私の振りをしていた〝思い〟を、
相手にしないでいると、やがて自我が死に切り、
絶対に説明できない表現不能の〝……〟が、
ばーんと露わになり、そこから全ての思いの発露
である〝幸せな歓びの思い〟に取り込まれる。