香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

死んだまま生きてる

 

 

 

正月に妹と〝執着〟について語り合ったと書いたが、

 

なんと、今年に入ってから、妹と同じく、僕もまた、

 

世界に対する執着がどんどん薄れていっている。

 

なんていうか、欲しいモノ、とか、やりたいこと、とか、

 

こうなったらいいなあ、という願望が無くなってゆく。

 

まあ、こう書くと、

 

「これといって、したいこととか、欲しいものもないし、

 

別に明日死んだって全然かまわないよ」

 

というような、虚無的で投げやりな感じに、

 

受け取られえるかもしれないが、そうではない。

 

外側でなにが起こっても起こらなくても、

 

現実とは関係なしに〝エクスタシー〟なのだ。

 

 

 

 

「私はもう、この幻想世界には何の未練もないので、

 

 いつ死んだって構わない」

 

 と、スピをやっている人とかが言ったりするが、

 

(うちの母なんか毎日10回くらい言う)

 

じゃあ、明日、死んでいただくので、

 

もし、嫌だったら2時間前にキャンセルしてください、

 

と言われれば、絶対キャンセルすると思うのだ。

 

死ぬ前に、好きな歌手のコンサートを見に行きたい、

 

とか、海辺をバイクでかっ飛ばしてから、とか、

 

子どもが一人前になるまでは、とか、

 

色々あるからだ。

 

要するに、それがどんなにちっぽけなものであろうと、

 

人は何らかの欲望があるうちは死ねないのである。

 

 

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しかし、今の僕は、なんていうか、

 

生きているけどすでに死んでいる、というか、

 

死んだまま生きている、みたいになっている。

 

ただ、誤解を避ける為に補足すると、今の僕は、

 

こんな境涯に在りながらも、

 

小説も書くし、筋トレもするし、海外旅行も行くし、

 

ボケ防止のためにDHAも飲むし(笑)、

 

レストランでは、食べたいものを吟味して注文する。

 

かといって、そこに引っかかるようなものがなく、

 

これら日々の動き自体が自身の活動となっている。

 

何かをしよう、という主体なしで、それをしている。

 

完璧な例えではないが、トイレへ行くのと同じ感じ?

 

トイレへ行く時、

 

「私は今、トイレへ、行くん、だぁーっ!」

 

と決意を新たにトイレへ行っていないはずである。

 

昨日したおしっこの事など、覚えてもいない。

 

そんなレベルのところで生きている気がするのだ。

 

今年の年末ごろには、自分はどうなっているのだろう、

 

なんか、楽しみではある。