正月に妹と〝執着〟について語り合ったと書いたが、
なんと、今年に入ってから、妹と同じく、僕もまた、
世界に対する執着がどんどん薄れていっている。
なんていうか、欲しいモノ、とか、やりたいこと、とか、
こうなったらいいなあ、という願望が無くなってゆく。
まあ、こう書くと、
「これといって、したいこととか、欲しいものもないし、
別に明日死んだって全然かまわないよ」
というような、虚無的で投げやりな感じに、
受け取られえるかもしれないが、そうではない。
外側でなにが起こっても起こらなくても、
現実とは関係なしに〝エクスタシー〟なのだ。
「私はもう、この幻想世界には何の未練もないので、
いつ死んだって構わない」
と、スピをやっている人とかが言ったりするが、
(うちの母なんか毎日10回くらい言う)
じゃあ、明日、死んでいただくので、
もし、嫌だったら2時間前にキャンセルしてください、
と言われれば、絶対キャンセルすると思うのだ。
死ぬ前に、好きな歌手のコンサートを見に行きたい、
とか、海辺をバイクでかっ飛ばしてから、とか、
子どもが一人前になるまでは、とか、
色々あるからだ。
要するに、それがどんなにちっぽけなものであろうと、
人は何らかの欲望があるうちは死ねないのである。
しかし、今の僕は、なんていうか、
生きているけどすでに死んでいる、というか、
死んだまま生きている、みたいになっている。
ただ、誤解を避ける為に補足すると、今の僕は、
こんな境涯に在りながらも、
小説も書くし、筋トレもするし、海外旅行も行くし、
ボケ防止のためにDHAも飲むし(笑)、
レストランでは、食べたいものを吟味して注文する。
かといって、そこに引っかかるようなものがなく、
これら日々の動き自体が自身の活動となっている。
何かをしよう、という主体なしで、それをしている。
完璧な例えではないが、トイレへ行くのと同じ感じ?
トイレへ行く時、
「私は今、トイレへ、行くん、だぁーっ!」
と決意を新たにトイレへ行っていないはずである。
昨日したおしっこの事など、覚えてもいない。
そんなレベルのところで生きている気がするのだ。
今年の年末ごろには、自分はどうなっているのだろう、
なんか、楽しみではある。