先週の土曜、夜の11時くらいに、ジムへ行こうと、
電動自転車で梅田の繁華街を走っていたのだ。
土曜夜の繁華街は人も多く、酔った人も多いので、
注意深く走行してはいたのだが、前方の道を、
ある人たちの集団が横切ろうとしていて、
その隙間を縫うように突き抜けようとしたら、
その中の一人の男性(紫のスーツ/坊主の金髪)が、
避けようともせずそのまま僕の自転車に突進してきた。
一瞬立ち止まり、にらみ合い、そして、僕は走り去った。
彼にしてみれば、自分が歩いているところへ、
自転車がツッコんできた、と思ったのだろう。
彼がわざと僕の自転車を避けなかったのは明らかだ。
以前の僕なら、かなり動揺していたと思う。
「俺も悪かったかも…」と反省しつつも「なんだこいつ!」
と、心の中で、相手を罵倒し続けていただろう。
しかし、この時は、何の動揺も起きなかった。
その瞬間の、縁に触れて現れた姿として智覚され、
「コノヤロー!」という認識が立つ前の、
最初の〝あっ!〟のままで通り過ぎ、消えていった。
多分、たとえ、僕の若い頃のヤンキーの血が騒ぎ、
取っ組み合いのけんかになって、
結局相手からボコボコにされたとしても、
消えてゆく姿として、それが現われ、しばし留まり、
終わっていただろう。
これは僕だけかもしれないが、ゼロ秒の〝あっ!〟
だけで生活ができるようになってくると、なんていうか、
ものすごい〝愛おしさ〟のなかで生きることになる。
なぜなら、見えているもの、聞こえているもの、
その活動自体が天国の活動であり、他に何もなく、
自身が〝愛の活動〟だったことを智るからだ。
天国はすでにここに在り、自分は常に天国にいるのに
眠りの中で別の夢を見ているために、
それが認識されない、とよく言ったりするが、
天国とは、認識より前の様子、ゼロ以前の様子、
決断の主体以前の様子なので、
天国が認識できていたら、それは天国ではない。
しかし、座禅や、赦しや、今に在る、ことなどによって、
認識以前の様子(天国)に、ふっと触れる瞬間があり、
その後、再度認識が戻った時に、
ここが天国であったことを智覚する。