👆 ヴィンセントと行った新世界の洋食店〝梵〟
牛カツサンドの美味さ忘れられずテイクアウト
〝ふっ〟と勝手に湧いてくる思いを全く相手にせず、
〝神に愛されている感じ〟を前面に置いて、
日常が送れるようになると、
見えるもの、聞こえるもの、
自分を含めだ全てのもの、が大事に思えてくる。
自分というものが、ビーンとおっ勃っていた頃は、
自分が大事だ、と思うものだけを大切にしていた。
要するに、自分を大事にするか、他人を大事にするか
そのどちらかに針が振れてしまっていた。
例えば、
僕のような自己肯定感高めな他責型の人間だと、
他人がどうなっても、それは他人の責任であり、
自分とは関係なく、先ずは自分が大事、となる。
逆に、自己肯定感が低い自責型の人だと、
自分さえ我慢すれば、と、自分は瀕死の状態なのに、
他人の要求をどんどん受け入れてしまったりする。
しかし、
今この瞬間の様子のみで生きるようになってくると、
瞬間瞬間の営みが自身の活動、となり、そこから、
何とも言えない愛おしさが湧き上がってきて、
お風呂に入ったり、歯を磨いたり、髪を整えたり、
することが、神聖な儀式のように思えてくる。
それが、何とも言えないエクスタシーとなる。
僕自身の事を例にとって具体的に述べると、
まず、家の中にあるもの、家具、衣服、食器、書籍、
調味料、洗剤、化粧品、カバンや靴、電気製品、など、
本当に必要で、大好きなものだけを選び抜き、
家の中の空間を快適に保つようになった。
また、シャンプーや、顔に塗る化粧品をちゃんと吟味し、
プロテインや必要なサプリを飲みながら筋トレをして、
自らの肉体をきちんと整えるようにもなった。
そして、店員さんや、配達員のお兄さん、といった、
二度と会わない人との一瞬のふれあいであっても、
ちゃんと、相手を〝観て〟いる。
(言葉や思いで見るのではなく…)
なんか、空間側が自分みたいな、
空間の活動に、自分の肉体の活動を見ている、
みたいな、そんな感じ…。
悟り系や非二元の角度から見れば、全ては幻想で、
ただ起きているだけであり、そこに実体などないので、
そこに、神とか、慈しむとか、愛とかを見ること自体、
まだまだ、となってしまうのだろうが、
僕の場合で言えば、
見えているもの、聞こえているもの、接しているもの、
それ全部が〝神やん!〟となってしまっている。
なので、
家の中を快適に保とうとか、肉体を整えようとか、
兄弟によいものを差し出そう、というのも、
そんな〝私個人〟の意図などなしで、
自然とそうしてしまっている。
逆の言い方をすれば、全部が〝神やん〟なので、
自分(神)を汚部屋に住まわせたり、
他人(神)に対してどうでもいい対応をしたり、
など、そんなことは絶対にありえないこととなる。
ただ、留意しなければならないのは、
神は物や人の中に在るのではない、ということだ。
また、物や人を通じて神を感じるのでもなければ、
ましてや〝わたし〟の中に神が在る、のでもない。
〝私〟が認識するものの中に神はなく、
神は常にバーン、とむき出しになっている。