👆 新世界市場のコロッケ屋さん
いつも中国人観光客で大行列
最近のスピの潮流として、今この瞬間、
好きだと思うことだけをして生きろ、というのがある。
逆に言えば、嫌いなことはしない、ということなのだが、
そんなの絶対不可能だ、と思ってしまう。
そもそも、何が好きなことで、何が嫌いなことか、を、
常に考えながら生きてたら生活が破綻するし、
好きじゃないから、という理由で、その都度、
仕事を辞めたり住む所を変えるのか、という話になる。
しかし、これを赦しの観点から見るならば、
好きなことを〝する〟のではなく、
好きを〝選ぶ〟でいいのではないか、と思うのだ。
👆 僕も食べたことあるが、味はいたってフツー
自分が好きなことを〝する〟と言うと、つい僕たちは、
何か自分にとって、有意義な事、をしようとしてしまう。
それで、バイクに乗って出かけてしまったり、
今この瞬間、絵を描き始めたりする。(笑)
(よい例が思いつかず、お二方!犠牲になって!)
一方、好きなことを〝選ぶ〟とはどういうことかいうと、
やっぱりやめておこう、と思ったことを、いまやる。
そしてそれが、赦しの実践となり、
あると思っている罪悪感を癒すことになる。
👆 美味いからバズる、というのでもなさそうだ
〝この件、部長に伝えといた方がいいと思うけど、
何言われるか分らないからやっぱり止めておこう〟
(それで、後でえらいことになって自分の首を絞める)
〝こんなに楽しいのは久しぶり、だけど明日仕事だし、
みんなにはいつでも会えるし、今日は帰ろう!〟
(次に会ったのは3年後で、全く盛り上がらなかった)
〝(夫や妻や親)が言った、さっきの一言が許せない、
でも、ケンカになるから今言うのは止めておこう…〟
(で、ある日、積もりに積もったうっ憤が爆発し…)
〝あの人どうしてるかな、久々に会いたいなあ。
でも忙しいし、また時間がある時にLINEしよ〟
(そのまま忘れる…)
こういった、日常生活の中でふっと浮かんできて、
でも〝やめとこう〟と思ったことを〝今〟やるのだ。
それが、好きなこと(神)を選ぶことになり、
赦しとなる。
〝だけど…〟〝でも…〟の前に出てきた思いこそが、
チョクでナマの本音(神の想い/聖霊の思い)である。
せっかく出てきたその想いのようすを、
〝だけど…、でも…〟で否定することで、
様々な葛藤や罪悪感が生まれてくるのだ。
それが、自我が生き延びる密かなもくろみ、となる。
言いたいけど言うのやめとこ、
したいけどするのやめとこ、が出てきた時、
たとえそれが、波風立てるような事であっても、
言ってみる、やってみる、買ってみる、行ってみる。
それが結局、自己を肯定することとなり、
自我が喜んで消えてゆくための、
最初の呼び水となる。