👆 マスクをしてピースしている学生が〝神さま〟
僕が教える論文のクラスに、クリシュナ、という名の、
ネパール人男子学生がいるのだ。
「先生、クリシュナって、ヒンドゥー語で、
〝神さま〟っていう意味なんだよ」
と、周囲の学生たちに教えられ、
「素敵な名前だね」と言って、その時から僕は、
彼のことを、日本語で〝神さま〟と呼ぶようにした。
「神さま、前に来て、ボードに答えを書いて!」
と僕が言うと、彼は、はにかみながら前に出てくる。
こうして、何度も彼のことを神さまと呼んでいるうちに、
なんだか、彼が本当の神さまのように思えてきて、
やがて、僕の心の中の神さまが反応を始めた。
全ての人たちの中にクリシュナ(神さま)がいる。
僕がこれまで、見知らぬ人との一瞬の交流の中に、
言いようのない、愛おしさや、温もりを感じていたのも、
それは、互いの中に在る神に触れたからなのだった。
神さま、という言葉に嫌悪感を示す人は多いが、
それは自分の親を嫌悪するのにも似て、不毛である。
自我が、どんなに神から遠く離れたような現実を
突きつけてきたとしても、決してなくならない、
それぞれの兄弟の中に在る〝神さま〟…。
その、ひとりひとりの兄弟の中に息づいている
神さまに気づいていることで、彼らとの交流は、
たとえそれが憎悪のやり取りであっても、
神聖で、愛に満ちた神の交わりとなるのだ。