「各宗派の総本山のトップにいる偉いお坊さん達は、
当然みんな〝悟って〟いるんですよね」
と、ネホリ~ナ、ハホリ~ナ、で老師に訊いてみた。
「昭和の初めには大悟した大僧正がいたけれど、
それ以降、総本山の中にはひとりもいないなあ」
と老師はおっしゃった。
どうしてそう言い切れるのか、というエピソードは、
とても長くなるので割愛するが、今では僧侶の間でも、
〝悟り〟について云々することはご法度なのだという。
禅寺なんかで、座禅をしている僧侶の肩を、
警策でバシンッ、と打つシーンをテレビで見たりするが、
あれもテレビ用にパフォーマンスでやっているという。
そして、座禅もまた、自己の真相を悟るためのものから、
単なる精神統一的なものになりつつあるらしい。
👆 閑散とした紀伊駅前
というわけで、老師を前に、話が止まらないボクは、
先日書いた、0.00…1秒の話を老師にぶつけてみた。
👇 今この瞬間も全部過去
ぱっと何かを見たその瞬間には〝それ〟だけがあり、
0.00…1秒のあと、あ、椅子だ、という認識が起こる。
なので、僕たちは過去を後追いして生きており、
常に、自己の真相(ゼロ秒)からずれ続けている、
みたいなことを老師に話した。
👆 小学生の女の子がこっちを見ている
「そんなことはないですよ。ズレてなんかいません」
と老師はおっしゃった。
「ぱっと何かが見えた瞬間、何か分らないそれ、から、
あ、椅子だ、と認識が起こるまで、0.00…1秒の時間
が生じているからこそ救われているんです。
認識以前と、認識の後、ふたつ同時に認識できない。
なので、どちらも、真実の様子なのです」と…。
そうなのだ、いつだってゼロポイント、なのだ。
その事実の有りよう(ゼロ時間)に触れて、
はっと戻った瞬間に真相を悟る、というのは、
ひとつに救われていることを智る体験なのだ。
僕が日頃、
通りすがりの兄弟たちに巨大な愛おしさを感じるのも、
外にいる誰かに対して愛おしさを感じているのではなく、
それが自身の活動(神の活動)であるからであり、
ナマの〝まんま〟に愛おしさを感じて震えている。
井上老師は、僕が何を質問しても、
きちんと答えてくださる反面、とても気さくで、
緊張することもなく、ざっくばらんに話ができ、
いつも、あっという間に時間が過ぎる。
今回、午後1時から始まった参禅も、
いつしか午後4時を過ぎてしまい、
もう、バスの時間なんかどうでもいいや、と、
午後5時過ぎまで話しまくってしまった。
途中、認知症の人って、完全に今この瞬間にいて、
ある意味、悟っているのかも、という話になった時、
「じゃあ、もし老師がこれから認知症になったら、
もう一回、新たな解放が起きるかも、っすね」
と、僕が軽口を叩いたら、
老師は手を叩いて、大爆笑されていた。