👆 スリランカの学生たち
昼休みのひととき、何を話しているのかな?
自我にとって最も不都合なことは何かと言えば、
それは、僕達がこの夢の現実を相手にしなくなること、
ではないだろうか。
たとえ、全世界から嫌われようが、無一文になろうが、
大勢から罵られようが、騙されようが、病気になろうが、
愛する人がいなくなろうが、…あと何があるかな…?
あ、そうだ、苦しすぎて体を脱いじゃいたくなろうが、
これ全部、出来の悪い韓流ドラマだと笑っていられる。
誰かから嫌われたり、無一文になったり、罵られたり、
騙されたり、病気になったり、死んだりすることなんて、
絶対に不可能であり、とんでもなくバカげたことであり、
もう笑っちゃうくらいあり得ないことだと、
智っているところで生きている。
自我がいくら、それがさも起こっているかのように
見せかけて来たとしても、ただただ大笑いしながら、
これは夢で、ウソで、本当ではないのだ、と、
心底脱力しながら、今この瞬間瞬間、
この夢の映像の中を通り過ぎてゆく毎日。
とまあ、この歳(アラカン)にもなってくると、
夢の現実を生きる空しさ、みたいなものを感じ始める。
一世を風靡した大スターであれ、ホームレスであれ、
大富豪の御曹司であれ、日雇い労働者であれ、
絶世の美女(美男)であれ、ブス(ブおとこ)であれ、
みんな、しばし、それぞれの思いの中を生き、
そして、みんな平等に、泡ぶくのように消えてゆくことを
はっと、自覚して、脱力する瞬間が多くなってくるのだ。
やりたいことを思い切りやれて俺ってシアワセ~っ、
何をやってもダメで、お金もなくバカにされてミジメ~っ
このふたつに、一体何の差があるというのだろうか。
どんなに成功しても、どんな功績を残しても、
最後はみんな終了し〝ゼロ〟に戻るのだ。
会社でどんな目に遭っていても、
どんな嫁姑バトルを繰り広げたとしても、
ただ、そういう〝場面〟を通り過ぎ、やがて消える。
その証拠に、頑固一徹のおじいちゃんも、
嫁姑バトルを繰り広げたおばあちゃんも、
みーんな、全てを置いて逝ってしまったではないか。
何かを手にして去ったものなど、一人もいない。
そういったことが、この歳になると、解ってくるのだ。
それでも、30代くらいの若い人たちからすれば、
まだまだ、夢や野望でギラギラしていると思うのだが、
逆に言えば、
最後は跡形もなく〝終了してくれる〟からこそ、
安心して、思いきりギラギラしながら、
様々な夢や野望に挑戦してゆけばいい、と思うのだ。
何をしても、何を言っても、必ず終了するのだから、
がんがん、やりっぱなし、言いっぱなしでいい。
(こらあ、パクるなあー👈 某T姉さん)
そして、夢を見ている自覚の先に、
今この瞬間の実相が顕われてくる。