👆 ソフトモヒカンにしてみた
なんか最近、オセロの黒が白にひっくり返るように、
僕の中で次々と〝好きだ〟が〝愛してる〟に、
変換されていっているような気がする。
普段、僕達は、
「ここのラーメン好き!」「山田さん、親切で大好き!」
「私のお気に入りの鞄」「大好きなこの歌手のこの曲」
と言ったりするが、
「ここのラーメン愛してる!」「山田さんを愛してる!」
「このバッグ愛してる!」「愛する歌手のこの曲」
とはあまり言わない。
👆 学校の事務長から何か言われるかな?
「先生としてふさわしくないっ!」とか…(笑)
何かを好きだ、と感じた時、そこには必ず理由がある。
あの歌手のあの曲だから好き、みたいな…。
また、好きの中には、また食べたい、また会いたい、
また身に着けたい、また聞きたい、というように、
何度でも〝したい〟が含まれている。
そして、ここのラーメンは二番目に好き、みたいに、
〝好き〟にはレベルがあり、序列がある。
👆 ま、いっか!
一方で、〝愛している〟には理由がない。
自分が全てを失ってでも、愛さずにはいられない。
なぜかわからないけど、すっごく愛おしい。
愛おしいとか、愛してる、という言葉ですら、
表現不能な、ぎゅーっとこみあげてくる感じ…。
対象が人であれ、ものであれ、動物であれ、
その瞬間に感じている、至悦の〝感じ〟は、
強弱の違いこそあれ、同じものであるはずだ。
今の僕は、好きの延長線ではなく、
理由なしで直に〝愛している〟となっている。
しかしそれは、おいしい、とか、気持ちいい、とか、
うれしい、といったものでもなければ、
「愛と歓びに満たされて幸せ~!」でもない。
ちょっと、解かってもらいにくいと思うのだが、
こいつムカつく、しばいたろか、このボケがあ、
のそのままが〝愛してる~!〟になっている。
要するに、
表面的な状況からくる感情はどうでもよくて、
好きな歌手の曲と、興味のない歌手の曲の間に、
何ら差異がなく、愛してる、しかない。
なので、それがなかったら寂しい、とか、
これは、あれより楽しい、という差異が無いのだ。
うーん、どう言えばいいだろう?
自分のパートナーと、パワハラ上司の佐藤さんが、
平原綾香の歌と、大場久美子の歌が(ふるっ!)
まったく寸分の差異もなく同じ、なのだ。