最近、
〝無策無為〟という言葉が座右の銘になっている。
いかなる策も講じず、ただ傍観しているという意味で、
一般的には、何をやっても無駄だと、諦めて何もしない、
と、悪い意味で使われることが多いようなのだが、
そもそも、どうにかできる自分の人生、など存在せず、
ああすればうまくいく、と考えている〝わたし〟など、
どこにもいないことが明確になると、
はなから無策無為だったことがはっきりしてくる。
よくよく考えて見れば、
無策無為でなかったことなど一度も無かったのだ。
例えば、ある女性が、婚活パーティーに参加して、
優しくて、誠実で、イケメンなお医者さんと結婚できた、
と言ったって、なにひとつ自分でやっていない。
本人は、婚活パーティーに行くと決めたのは私で、
私が自分の力で、あのイケメン医師をゲットした、
と思っているが、全ては自分無しで起きている。
婚活パーティーのことを〝ふっ〟と耳で聞き、
参加してみようと〝ふっ〟と思い立ち、
そこでタイプの医者が〝ふっ〟と眼球に映り、
〝ふっ〟と声をかけたら乗ってきた、みたいな(笑)
(ヘンな例しか思い浮かばず、すんまそん!)
婚活パーティーのことが鼓膜に〝聞こえて〟きて、
参加しようかな、と〝思えた〟あとで、〝この私が〟
婚活パーティーに参加しようと決めた、と言っている。
全部、見えたり聞こえたものを後付けで解釈し、
自分の思いとして横取りしている。
「なんで、あの時、あんなことを言ってしまったんだ?」
「なんで、あの時、そのことを思いつかなかったのか?」
バカバカバカ、と自分の頭を叩いたりしてしまうが、
その時に、ふっとその思いが湧いてこない限り、
自分にはどうすることもできないのだ。
〝無作為〟に何かが見え、聞こえるのと同様、
思える、という機能も、無作為に起こっている。
これを思おう、と決めたから思えたのではない。
「私が、こう思って行動したから、こういう結果になった」
という思い込みが、全ての間違いの根源となっている。
そういう思いが、どこからともなく立ち上がってきたから、
そういう行動を取ったのであり、私がそう思って行動した、
という時点でもう、全ては後の祭りなのである。
〝無策無為〟に開いて委ねきっている。
(本当は、委ねている自己すら無いのだけれど…)
すると、何かを思える前の様子、
長いものを長いと理解する前の様子が見えてくる。
その時、夢を見る以前の様子が明らかになる。
そこに、僕らが永遠に帰還すべき故郷が待っている。