香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

無策無為

 

 

最近、

 

〝無策無為〟という言葉が座右の銘になっている。

 

いかなる策も講じず、ただ傍観しているという意味で、

 

一般的には、何をやっても無駄だと、諦めて何もしない、

 

と、悪い意味で使われることが多いようなのだが、

 

そもそも、どうにかできる自分の人生、など存在せず、

 

ああすればうまくいく、と考えている〝わたし〟など、

 

どこにもいないことが明確になると、

 

はなから無策無為だったことがはっきりしてくる。

 

 

 

 

よくよく考えて見れば、

 

無策無為でなかったことなど一度も無かったのだ。

 

例えば、ある女性が、婚活パーティーに参加して、

 

優しくて、誠実で、イケメンなお医者さんと結婚できた、

 

と言ったって、なにひとつ自分でやっていない。

 

本人は、婚活パーティーに行くと決めたのは私で、

 

私が自分の力で、あのイケメン医師をゲットした、

 

と思っているが、全ては自分無しで起きている。

 

 

 

 

婚活パーティーのことを〝ふっ〟と耳で聞き、

 

参加してみようと〝ふっ〟と思い立ち、

 

そこでタイプの医者が〝ふっ〟と眼球に映り、

 

〝ふっ〟と声をかけたら乗ってきた、みたいな(笑)

 

(ヘンな例しか思い浮かばず、すんまそん!)

 

婚活パーティーのことが鼓膜に〝聞こえて〟きて、

 

参加しようかな、と〝思えた〟あとで、〝この私が〟

 

婚活パーティーに参加しようと決めた、と言っている。

 

全部、見えたり聞こえたものを後付けで解釈し、

 

自分の思いとして横取りしている。

 

 

 

 

「なんで、あの時、あんなことを言ってしまったんだ?」

 

「なんで、あの時、そのことを思いつかなかったのか?」

 

バカバカバカ、と自分の頭を叩いたりしてしまうが、

 

その時に、ふっとその思いが湧いてこない限り、

 

自分にはどうすることもできないのだ。

 

 

〝無作為〟に何かが見え、聞こえるのと同様、

 

思える、という機能も、無作為に起こっている。

 

これを思おう、と決めたから思えたのではない。

 

 

「私が、こう思って行動したから、こういう結果になった」

 

という思い込みが、全ての間違いの根源となっている。

 

そういう思いが、どこからともなく立ち上がってきたから、

 

そういう行動を取ったのであり、私がそう思って行動した、

 

という時点でもう、全ては後の祭りなのである。

 

 

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〝無策無為〟に開いて委ねきっている。

 

(本当は、委ねている自己すら無いのだけれど…)

 

すると、何かを思える前の様子、

 

長いものを長いと理解する前の様子が見えてくる。

 

その時、夢を見る以前の様子が明らかになる。

 

そこに、僕らが永遠に帰還すべき故郷が待っている。