👆行きつけの飲み屋でべろんべろんに…
見る前に見えている、聞く前に聞こえている、
嗅ぐ前に匂えている、味わう前に味がしている、
寒いと思う前にぶるっと感じている、
そして、思う前に思えている。
その活動の中に〝わたし〟は微塵もない。
見えてから「私が見た!」と言っている。
聞こえてから「私が聞いた!」と主張している。
見えたり、聞こえたりした後で、
腹が立った、悲しい、うれしい、怖い、と言っている。
腹が立った時には、すでに見えて、聞こえている。
全てが通り過ぎた後で〝私〟があれこれ解釈して、
「全部私が決めてますうーっ!」とやっている。
自分無しに、見えていて、聞こえていて、思えている。
その後で、いるはずのない自分がしゃしゃり出てきて、
この見えたものが嫌い、聞こえた言葉が気に入らん、
こんなことを思っている自分が嫌い、とやっている。
また、そんな解釈ですら、自分でやっていない。
逆に言うと、その解釈が勝手に湧いてこない限り、
何かを解釈することなんか絶対にできない。
強いてできることがあるとすれば、
無為無策で、ただ委ねて切っているだけだ。
〝ああ、ほんっとーのホントーになかった!〟
ことがハッキリした瞬間、自己の真相を悟る。
そして、全てが赦されていたことを智覚するのだ。