香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

生まれてもいないのに…

 

👆 久々に紀伊国屋書店で本を見てまわる

   もう長いこと本屋で本を買っていないなあ

 

 

昨夜、寝床に就いたとき、ふと思った。

 

いま、僕の周囲にいる、大切な誰かが、

 

突然体を脱いで逝ってしまったとしても、

 

僕は多分、全く悲しまないだろう、と…。

 

悲しまないどころか、ほくそ笑んだりすると思う。

 

 

👆 ミャクミャク、かわいくない

    やっぱり慣れない

 

 

不謹慎なことを承知で、誤解を恐れずに言うなら、

 

誰かの訃報を耳にしたとき、とても祝福したいような、

 

ホッとするような、すごくワクワクした気持ちになる。

 

まあ、僕には子供がいないので何とも言えないが、

 

たとえ自身の子を亡くしたとしても、同じだろう。

 

それどころか、早く逝けていいなあとさえ思ってしまう。

 

もちろん、この世界が嫌だから早く終わりにしたい、

 

という意味から、そういう気持ちになるのではない。

 

それは例えば、会社を辞めて自由になる同僚を見て、

 

俺もいつかこの、会社と言う監獄から出てやるぞ、と、

 

自由への希望から、ワクワクしながら、

 

去ってゆく同僚を見送るのに似ている。

 

 

👇僕がまだバリバリのビジネスマンで、

   中国を飛び回っていたころ…

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大切な人の死を嘆いて、悲しみに暮れる人がいるが、

 

それも結局、死者を悼んで嘆いているのではなく、

 

自分にとって必要だった人がいなくなったので

 

悲しんでいる、つまり、自分のために嘆いている。

 

また、死を恐れる人たちも、真に恐れているのは、

 

死ぬことそのものではなく、死ぬ前に味わう

 

〝肉体的苦痛〟であったりする。

 

なので、それがどんなに悲惨な死に方であっても、

 

本人にとって死は、自由への旅立ちなのであり、

 

祝福に値するものだ、と僕は考えている。