👆 久々に紀伊国屋書店で本を見てまわる
もう長いこと本屋で本を買っていないなあ
昨夜、寝床に就いたとき、ふと思った。
いま、僕の周囲にいる、大切な誰かが、
突然体を脱いで逝ってしまったとしても、
僕は多分、全く悲しまないだろう、と…。
悲しまないどころか、ほくそ笑んだりすると思う。
👆 ミャクミャク、かわいくない
やっぱり慣れない
不謹慎なことを承知で、誤解を恐れずに言うなら、
誰かの訃報を耳にしたとき、とても祝福したいような、
ホッとするような、すごくワクワクした気持ちになる。
まあ、僕には子供がいないので何とも言えないが、
たとえ自身の子を亡くしたとしても、同じだろう。
それどころか、早く逝けていいなあとさえ思ってしまう。
もちろん、この世界が嫌だから早く終わりにしたい、
という意味から、そういう気持ちになるのではない。
それは例えば、会社を辞めて自由になる同僚を見て、
俺もいつかこの、会社と言う監獄から出てやるぞ、と、
自由への希望から、ワクワクしながら、
去ってゆく同僚を見送るのに似ている。
👇僕がまだバリバリのビジネスマンで、
中国を飛び回っていたころ…
大切な人の死を嘆いて、悲しみに暮れる人がいるが、
それも結局、死者を悼んで嘆いているのではなく、
自分にとって必要だった人がいなくなったので
悲しんでいる、つまり、自分のために嘆いている。
また、死を恐れる人たちも、真に恐れているのは、
死ぬことそのものではなく、死ぬ前に味わう
〝肉体的苦痛〟であったりする。
なので、それがどんなに悲惨な死に方であっても、
本人にとって死は、自由への旅立ちなのであり、
祝福に値するものだ、と僕は考えている。