👆 やっても、やっても、終わらない…
7月13日でようやく前期の授業が終了となる。
そのあと前期試験があり、夏休みに入る。
それでいま、前期試験の問題作成に追われている。
中でも論文の試験では、実際に文を書かせるのだが、
いきなりは無理なので、事前にテーマを与え、
生徒達が書いた文を僕が添削したあと、
当日までにその文章を覚えてこさせ、
試験では何も見ずに書いてもらう。
試験論文のテーマは《歩きスマホについて》にした。
授業では、
まず、歩きスマホに賛成か反対かを決めさせ、
次に、人はなぜ歩きスマホをするのかを考えさせる。
そして、歩きスマホのよい面と悪い面を話し合った後、
最後の結論へと導く。
なんせ相手は、漢字圏ではない国の留学生であり、
「~です」を「~である」に変換するだけでも一苦労だ。
それでもみんな活発に意見を出し、曲がりなりにも、
ちゃんと意味がわかる小論文を仕上げてきた(偉い)。
ただ、2クラス分、55人の小論文を添削するので、
これがもう、やってもやっても終わらない。
ジムの帰りに、スタバでコーヒーを飲みながら、
ききいぃーっ、となりつつ、赤をいれていった。
もし自分がこのテーマで小論文を書くとすれば、
どんなことを書くだろう、と添削しながら思った。
例えば、多くの人がスマホばかり見ているのは、
いま、見えている場所がつまらないからだろう。
道を歩いていても、別に面白い事があるわけでもなく、
電車を待っている時も、
ただぼーっと、ホームに立っているだけで、
興味をひくような事が目の前で起こるわけでもない。
そんな、退屈な空間から逃れるようにスマホを見る。
しかし、今この瞬間に展開されている空間の活動
(目や耳や鼻や舌や皮膚で捉えている活動)に、
とてつもない神のオーガズム(法悦感)を感じて、
〝ヌレヌレフルボッキ〟状態の僕からすれば、
スマホに没入して、
このとてつもないオーガズムを放棄するなんて、
目の前に、100%自分好みの美女(または美男)
がいるのに、スマホの出会い系アプリを見ながら、
誰かいい人いないかなあ、
と言っているのと同じに思えて仕方がないのだ。
(説得力のない例でスンマセン!)
スマホの中に真の悦び(神のエクスタシー)はない。
なぜならスマホの中のものは全て過去であるからだ。
スマホに没入することで、意識が過去へと落ち込み、
〝いまこの瞬間に在る神〟が置き去りにされる。
今この瞬間が嫌だと言って過去へと逃げているので、
目の前で微笑んでいる神に気づけないのだ。
ちょっと顔を上げて、眼前の景色を直視するだけで、
街の風景に、道行く兄弟たちに、自分の肉体に、
ナマでチョクの実相に気づけるのに、である。
さあ、顔を上げて直視するのだ!
「ほんのちょっとの勇気を持って下さい!」と、
あさひ美容外科の院長も言っているではないか。
(って、なんでやねん!)