👆 世界はもともと静かなのだ。
自分の中のお喋りがうるさいだけなんだ。
最近、
なあんか妙に静かだなあ、とは思っていたのだ。
混んでいる居酒屋のような場所にいるときでも、また、
大通りの喧噪の中にいても、常に静寂が流れている。
強化ガラス1枚隔てて外界を眺めているような感じだ。
最初、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
しかし、周囲の音ははっきり聞こえている。
そして、ある時、静かなのは外側の世界ではなく、
自分の内側であったことにハタと気づいた。
頭の中の〝思考のお喋り〟が消えていたのだ。
👆 五種類のお茶を選べる
絶え間なく頭の中を流れている思考のお喋り…。
過去に経験した、恥ずかしい事や、腹立たしい事、
誰かから言われた一言をふと思い出して、そこから、
限りない復讐妄想劇が始まったりする、アレだ。
多くの人が、
この心の中のお喋りを自分だと思いこみ、
中には、それらの言葉に脅され、
傷つけられたあげく、心の病いに陥る人までいる。
例えば、
あ、上司の山田課長だ⇒挨拶したのに無視された⇒
自分は何かしたのだろうか⇒なんかモヤモヤ⇒
昨日のメールのやり取りで何か書いたのかも⇒
あ、そう言えば、1週間前に言われたあの一言が…
とまあ、山田課長という肉体を目にしただけなのに、
そこから、頭の中のお喋りが、延々と展開されてゆく。
思える、という機能も、
見えたり、聞こえたり、するのと同じく、
肉体に備わっているひとつの機能に過ぎない。
よって、目に見えたものが自分ではないのと同様、
頭に浮かんできた思いもまた、
自分がそれを思ったのではない。
山田課長に挨拶を無視されてモヤモヤしたのなら、
それもまた、何かが見えたのと同じように、
見たのではなく見えたのであり、
思ったのではなく、そう勝ってに思えただけだ。
今この瞬間の思いであり、ただそれだけである。
しかし、家に帰ってもまだ、
もうここにはいない山田課長のことを考えて、
延々嫌な気分に陥っている。
明日、挨拶してまた無視されたらいやだな、とか…。
そして、今の僕は、それらの思考のお喋りが、
ぱたっと、一斉に止んでしまった中で暮らしている。
ただ、ここが説明の難しい所なのだが、
思考のお喋りがなくなっても、起こってくる思いはあり、
普通に仕事もできているし、ムカつくときはムカつく。
ただ、それは今この瞬間の〝縁に触れて〟
出てきた思いであり、少しも引きずっておらず、
よって、思考のお喋りにはならない。
この静寂の感覚は、数年前に、
完全に思考が落ち切った体験をして以降、
ずっと続いているのだが、最近特に深くなりつつある。
一度、哲玄老師に、相談をしに行こうと思っている。