
椅子に座った、スーパーで特価の大根を買った、
階段を上っている、会社を辞めた、彼に腹が立った、
そこには必ず、それをやっている〝私〟がいる。
しかし、本当はそんなことにはなっていない。
もし、全てのことを私がやっているのであれば、
あそこに椅子がある⇒座りたい⇒まずは右足を出して
⇒次に左足を出して⇒この椅子が安全かを確かめ⇒
体の向きを変え⇒ゆっくり膝を曲げ⇒腰をおろしてゆく
という動作の一つ一つを、このお偉い〝わ・た・し〟が
全て把握していなければならないはずなのだが、
実際には、何も考えず、無意識に椅子に座っている。
人生の全てがこんな感じで進んでいるのに、それを、
私がやっている、みたいに〝思わせられて〟いる。
こんなふうに、何をしていても、何を考えていても、
どこまでも〝私〟がしゃしゃり出てくる。
このブログの文章も〝私〟無しでは書けない。
「全部私が考え、私が行動し、私が結果を出しました」
と、起きてくる全ての事象を横取りして、
次から次へと自分の手柄にしてゆくのだ。
これをやっている限り、絶対に苦しみはなくならない。

コースの学習でも、これをやっていたりする。
例えば、聖霊兄貴に全てを委ね、
兄貴のガイダンスに従って動いたら、
こんな奇跡が起こった、と表現することがあるが、
まあ、例えば、いま、賃貸の部屋を探しているとして、
聖霊に全てを任せ、そのガイダンスに従って動いたら
奇跡のような好条件の物件が見つかった、みたいな…。
しかし、そこには、
ガイダンスに従って動いている〝私〟、
こんな奇跡が起こった、と喜んでいる〝私〟がおり、
その時点で、聖霊兄貴に委ねていないことがわかる。
なぜなら、聖霊兄貴に本当に委ね切っているのなら、
たとえ、死ぬほど悲惨な状況のまま終わったとしても、
それがそのままで聖霊兄貴のガイダンスとなる筈で、
聖霊のガイダンスによって…、という表現自体、
絶対に出てこないはずだからだ。
何が言いたいのかと言うと、
先ずは〝私〟というものに決着をつけない限り、
何を赦そうが、何を信じようが、どんな瞑想をしようが、
無駄だ、ということが言いたかった。
それには、思考のお喋りをやめること、
見えているもの、聞こえているもの、の様子に委ね、
そのまま放っておくこと、が決定的に大切になってくる。
こう書くと、放っておこうとする自分が立ってくるが、
最初のうちはそれでもいいと思うのだ。
いきなり、見えているそのもの、なんかにはなれない。
ほとんどの人は、委ねる先を間違えている。