香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

聖霊のガイダンスに従ったら…というウソ

 

 

椅子に座った、スーパーで特価の大根を買った、

 

階段を上っている、会社を辞めた、彼に腹が立った、

 

そこには必ず、それをやっている〝私〟がいる。

 

しかし、本当はそんなことにはなっていない。

 

 

もし、全てのことを私がやっているのであれば、

 

あそこに椅子がある⇒座りたい⇒まずは右足を出して

 

⇒次に左足を出して⇒この椅子が安全かを確かめ⇒

 

体の向きを変え⇒ゆっくり膝を曲げ⇒腰をおろしてゆく

 

という動作の一つ一つを、このお偉い〝わ・た・し〟が

 

全て把握していなければならないはずなのだが、

 

実際には、何も考えず、無意識に椅子に座っている。

 

人生の全てがこんな感じで進んでいるのに、それを、

 

私がやっている、みたいに〝思わせられて〟いる。

 

 

こんなふうに、何をしていても、何を考えていても、

 

どこまでも〝私〟がしゃしゃり出てくる。

 

このブログの文章も〝私〟無しでは書けない。

 

「全部私が考え、私が行動し、私が結果を出しました」

 

と、起きてくる全ての事象を横取りして、

 

次から次へと自分の手柄にしてゆくのだ。

 

これをやっている限り、絶対に苦しみはなくならない。

 

 

 

コースの学習でも、これをやっていたりする。

 

例えば、聖霊兄貴に全てを委ね、

 

兄貴のガイダンスに従って動いたら、

 

こんな奇跡が起こった、と表現することがあるが、

 

まあ、例えば、いま、賃貸の部屋を探しているとして、

 

聖霊に全てを任せ、そのガイダンスに従って動いたら

 

奇跡のような好条件の物件が見つかった、みたいな…。

 

しかし、そこには、

 

ガイダンスに従って動いている〝私〟、

 

こんな奇跡が起こった、と喜んでいる〝私〟がおり、

 

その時点で、聖霊兄貴に委ねていないことがわかる。

 

なぜなら、聖霊兄貴に本当に委ね切っているのなら、

 

たとえ、死ぬほど悲惨な状況のまま終わったとしても、

 

それがそのままで聖霊兄貴のガイダンスとなる筈で、

 

聖霊のガイダンスによって…、という表現自体、

 

絶対に出てこないはずだからだ。

 

 

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何が言いたいのかと言うと、

 

先ずは〝私〟というものに決着をつけない限り、

 

何を赦そうが、何を信じようが、どんな瞑想をしようが、

 

無駄だ、ということが言いたかった。

 

それには、思考のお喋りをやめること、

 

見えているもの、聞こえているもの、の様子に委ね、

 

そのまま放っておくこと、が決定的に大切になってくる。

 

こう書くと、放っておこうとする自分が立ってくるが、

 

最初のうちはそれでもいいと思うのだ。

 

いきなり、見えているそのもの、なんかにはなれない。

 

ほとんどの人は、委ねる先を間違えている。