
またまた、井上老師のところへ行ってきたよ。
前回の参禅が3月末だったので、3カ月ぶりである。
玄燈庵は、草花の匂いと夏の明るさに満ちていた。
久々にお会いする老師は、とてもお元気だった。
前回より、お痩せになったようで、それが心配…。
それでも、参禅が始まると、
とても静かで穏やかな空間の中に、
ピリッとした空気が流れ始めた。

今回、特に老師に訊きたい大きな悩みはなかったが、
先日、このブログでも書いた、思考のお喋りが止み、
世界が静かになった時の話をした。
「目の活動のまま、耳の活動のまま、と言うとき、
そこに、目の活動のまま、耳の活動のままでいる
自分が残っていると、必ず事実からズレてゆきます」
と老師はおっしゃった。
目に映るもの、耳に聞こえるものが事実である、とは、
目や耳が捉えたものしかない、ということであり、
そこには、
思考のお喋りが止んだ、という表現さえ出てこない。
その瞬間にはそれひとつしかない。
もしそこに自分がいるのなら、すでにひとつではない。

また、頭の中のお喋り、の話の流れで、
ずっと居もしない〝私〟に騙され続けてきた、
という話になり、悟りを開こうが、誰を赦そうが、
一瞥体験をしようが、全てを〝私〟が横取りして、
〝私〟の手柄にしてしまう。
そんな〝私〟など、
どこにもいないことがハッキリした瞬間、
あらゆる問題に決着がつき、解放が起こるのだと。
※これは僕が解釈したことで、老師の言葉ではない

👆 日本を代表する高僧を
こんなにバチバチ撮っていいのだろうか?
参禅は、午後1時に始まり、午後4時半に終わった。
すっごく暑い日だったが、全く暑さを感じなかった。
帰りの電車の中でも、頭の中のお喋りはなく、
とても静謐で、今、ここに見えている人や景色が、
思考無しのダイレクトな、自身の活動となっている。
いつもは音楽を聞きながら帰るのだが、
ナマでチョクの様子がリアルすぎて、聞く気がしない。
それは和歌山から戻ってきた今も続いていて、
何が起きるとか、起きないとか、がない。
この感じを老師に伝えようと、
「頭が真空パック!」「大好き!が溢れてくるうーっ!」
と、訳の分からない言葉を連呼するボクに、老師は、
「あとはずっと、考え方を捨てたままで行くだけ…」
とおっしゃた。
普段、こういう精神的な話をする機会が全くない僕が、
日本に二人といない禅の高僧と話すご縁ができて、
本当に幸せ!