
今回の井上老師との独参(老師と1対1の対話)では、
頭の中のお喋りだけで人生やってた、ということが、
ありあり、まざまざと、腑に落ちてガツンと入った。
例えば、アイツ死ねばいいのに、という憎悪、
これが気に入らん、あれがほしい、どうすれば…、
という好き嫌いや良し悪しの想い、
あの人、こっち見てちょっとニヤッとした、
自分になにか落ち度があったのか、または、
グループチャットで、自分だけスルーされる、
きっと自分は嫌われているんだ、怖いーっ、とか、
10年前に浮気して離婚した元旦那のことが、
いまでも許せないーっ、とか、
子どもの頃に母親に虐待されたトラウマが今でも…、
とまあ、例を挙げればきりがないのだが、
これって、全部頭の中の思いの中だけで起きていて、
今この瞬間、ここには何もない、ということが、
ストーンッ、と腹に落ちた瞬間、解脱する。
いや、
死ねばいいのに、と思った瞬間があったのは事実だし
旦那が浮気をしたその瞬間があったのも事実である。
ただ、今この瞬間は、その時の思いの残像しかない。
また、相手がこう思っているに違いない、
というのも、大いなる勘違いである。
本当に相手がどう思っているかを知りたければ、
相手に直接聞けばいいのだ。
聞く勇気もないくせに、勝手に解釈して悩んでいる。

例えば、九谷焼の茶碗が目の前にあったとして、
これは江戸時代の有名な誰々が作った茶碗で、とか、
愛するあの人が愛用していた茶碗だから、とか、
また、これは私の茶碗なので他人には触らせない、
といった〝思い〟を、茶碗に乗せて見ていたりする。
そんな思いを取り払って見れば、そこには、
茶色い色した、地味な丸い何かがあるだけだ。
そして、解釈する以前の様子の中から、
神がわわわ、と立ち上がってくる。

これは人に対しても全く同じである。
家柄、生い立ち、気性、見た目、服装、地位、
相手が発した、むっかーっとくるような言動、
それらの思いを全部取り払ったら、眼前にあるのは、
ただ、目があり、鼻がある、人の形をした肉体だけだ。
そして、口を動かして声を発している、
その肉体に救われていることを智る。
思っていることに罪はない。
あいつ死ねばいい、なんて思っている自分に、
罪悪感を感じる必要などない。
なぜなら、
何かを思っている自分など、どこにもいないのだから。