
👆 和歌山へ行く車中。お行儀悪いボク。
(車掌さんが通る時だけ、足を下ろす)
前回の記事からの続きで、奇跡講座ネタである。
兄弟に本音を表現しないまま、
聖霊と一緒に見る、聖霊に明け渡して何もしない、
神と一緒にいるから大丈夫、と言ったところで、
全く、全然、これっぽっちも意味をなさない。
なぜなら、兄弟の前でさえ何も言えないのに、
私は神と共にいます、なんて、ちゃんちゃらおかしい。
恐れずに兄弟を見れますように、といくら祈ったって、
神はこんな私を見放さず共にいてくれると思ったって、
今やらない限り、それはただ、言っているだけだ(笑)。

多くのコース兄弟たちは、テキストにこう書いてあった
と、言葉の解釈に溺れることで、今ではないいつかに、
赦しを先送りして安心してしまっていたりするが、
心の中を赦すのは、今この瞬間しかない。
そして、心の中を赦す、とは、
ありのままに兄弟を見させてください、と祈ったり、
あると思っている罪悪感を削除して下さいと唱えたり、
父はいつも私と共にいるので大丈夫、と納得させたり
しながら、《家政婦は見た》の市原悦子のように、
柱の陰から、起こっていることを眺めることではない。
今この瞬間、家庭で、職場で、友人同士で、
やりたいことはやりたいと言い、嫌なことは断り、
言うべきことははっきり伝え、言い合う時は言い合い、
自分の本音をちゃんと表現して生きるのだ。
それが、自分の心の中を癒す、ということである。
なぜなら、
自分の心の中を投影した世界がこの現実であり、
自分の生きざまが、目の前の他者に顕れている。
要するに、自分の自由の邪魔をしているのは、
目の前の上司や、家族や、友人や、モノではなく、
それらの人や物に扮した自分であるのだ。
故に、眼前の相手こそが自分の心の中を代表しており
まっこうから対峙するべき自分である。
分かってはいるけど、今はそんな勇気はないので、
少しづつ自分の心を赦していって、
それに聖霊はいつまでも待ってくれるから大丈夫、
だから、社畜から解放されて自由になる定年後には…、
なんて言っていても、その時になったらまた、
病気やら、アクシデントやなんやらが色々出てきて、
先送りになるのは目に見えている。
少しづつ…、というのはなくて、
今この瞬間にやるか、やらないか、だけである。
とまあ、かなり食い気味に書いてしまったが、
このブログを読んでくださっている読者のほとんどは、
コース学習歴10年以上のベテラン兄弟であるとともに、
それなりに年季の入った方たち(笑)だと思うので、
人前で思っていることを言えないとか、罪悪感がとか、
その年になってもうやめようよ、と言いたかった。
あなたは、誰に、一世一代の大喧嘩を挑みますか?
その相手こそが、あなたが赦すべき自分である。