
やっと、前期試験が終わった。
前期試験の最終日のテストが僕の担当教科で、
3人の先生が監督にあたった。
最後、一人のバングラディシュの男子生徒の机に、
〝会社〟〝取引先〟と鉛筆で小さく書いてあるのを、
監督していた別の先生が発見し、即不合格となった。
彼は「この漢字で合っているか、試し書きしただけ」
と、職員室に来て泣いて訴えた。
この生徒は、日ごろの授業態度も真面目で、
彼の様子から、ウソをついているようには見えない。
しかし、主任教官と話し合った結果、
例外は認められない、ということで、
彼の試験結果は0点、罰金を払って追試となった。

相手に対し、何らかの判断を下さねばならない時、
また、
「こういう決まりでしょ!」と正義を主張したくなる時、
スピ兄弟たちは、多かれ少なかれ、罪悪感を覚える。
これでいいのか、とか、相手にどう思われるだろう、
という思いと同時に、一種の後ろめたさが出てくる。
そこで、この恐れを直視してみたり、委ねてみたり、
と、心の中でどう処理してゆくか、をあれこれ考えた
結果、それは起こっていなかった、みたいな感じで、
自分の葛藤に折り合いをつけたていたりする。
この生徒は真面目だし、嘘ついてるように見えないし、
今回は大目に見てもいいんじゃないか、と思う前の、
最初のようすは、机に漢字が書いてある、であり、
そこから、
机に漢字➡カンニングした➡生徒が訴えている様子
➡やってないかも➡主任と話す➡やはり規則だから
というふうに思いが移行して、最終的に追試となった
ように見えているが、実際は、
その瞬間瞬間の思いは独立していて繋がっておらず、
その瞬間瞬間、その今の思いが出てきているだけだ。
それで最後の判断が、
「それは規則で決まっているからダメでしょ」であれば、
それこそが、その瞬間の自己の生きざまである。
規則で決まってるから追試という思いがいきなりあり、
彼がカンニングしたとか、そういう余計な思いは、
何もくっついていない。
自分がこういう判断をしてしまったのは、
厳格な親からこう教えられてきたから、とか、
過去の経験からくるトラウマでが原因で、
罪悪感からの判断しかできない、というのも、
〝後から〟くっついてきたもので、
その余計な思いを引きずっていなければ、
今この瞬間に感じている判断だけがある。
一歩引いて邪魔をしない、兄弟を赦す、というのは、
その一瞬の出来事に触れて出てきた思いのまま、
本当に何もしない、ということである。
というわけで、何もしなかった結果、
追試の監督のため、今週も出講である。