
昔、ハレ師匠が 「解釈だけが問題なんだ」 と、
繰り返し何度も言っていたのを、最近よく思い出す。
ほんとうにそうだな、としみじみ思う。
会社に行きたくない、上司に何て言われるだろう。
いま、お金がこれだけしかない、将来どうしよう。
きっと、みんなからこう思われているに違いない。
胃痛がずっと続いている、胃がんかも?
僕たちは四六時中、ありとあらゆる解釈をしまくり、
その解釈が正しいかどうか、で迷っている。
奇跡講座では、
これらの解釈の全てを兄貴(聖霊)に捧げ、
全決定権を兄貴に与えてしまいなさい、と言っている。
つまり、
自動的に湧き出るあらゆる思いを兄貴に明け渡し、
兄貴に完全にコントロールされたなかで、
仕事をしたり、食事をしたり、会話をするのだ。
それが、一歩引いて兄貴に道を譲る、兄貴に訊く、
兄貴と一緒に観る、ということになる。

僕は長い間、こんなの絶対にムリだ、と思っていた。
解釈をして何かをしようとしている自分に気づいて、
一瞬立ち止まり、それを兄貴に捧げ…、なんて、
一日中、ぼーっと虚空を見つめてる人ならまだしも、
忙しく働く中で、こんなこといちいちやってられない。
しかし〝私〟が解釈しているのではない、
ということがハッキリした瞬間から、出てきた思いを、
ただそのまんまにして放っておけるようになり、
自分の中に兄貴を招き入れる隙間ができた。
例えば、夕食のおかずを買いにスーパーへ行き、
そこで、特売の豚肉を見て「とんかつにしよう」と、
〝この私が決めた〟と思っているが、そうではない。
とんかつにしよう、という思いがどこからともなく、
ふっ、と湧き出てきたから夕食がとんかつになった。
逆に言えば、その思いが湧いて出てこない限り、
絶対にとんかつを食べることができないのだ。
つまり、勝手に、ふっと浮かんできたその思いを、
「自分がそう思った!」と解釈しているだけである。
故に、何かを決めている自分などいない。
ふっと出てきた思い=自分、だと捉えているので、
出てきた思いが、後悔や恐怖や不安だったりすると、
自分=苦しみ、となり、そこから罪悪感や無価値感
といった思いを捉えて、私=罪、となってしまう。
なのでまずは、
解釈=自分ではない、ことをはっきりさせたうえで、
出てくる全ての解釈を兄貴に渡しきる必要がある。
でないと、どうしても、私が思ったこの解釈を、
私が明け渡そうとしてしまう。
そういった意味で、悟りや非二元という概念は、
とても重要なのだ、と思っている。