
なにひとつ、自分で思っていないし、決めていない。
そもそも、何かを思っている自分なんていない。
自分なんていないから、罪悪なんていうものもない。
ピーポーピーポー、という音がしてから、
あ、救急車や、という思いがふっと湧き上がってくる。
救急車やと思ったからその音が聞こえたのではない。
あ、救急車や、という思いがふっと湧いて出るまでは、
ただのピーポーピーポーでしかなく、逆に言えば、
あ、救急車や、と言う思いが〝ふっ〟とわかない限り、
救急車が通った、と知覚できないようになっている。
何が言いたいのかと言うと、
思いには実体がない、ということを言いたかった。
どこからともなく湧き出した実体のない思いを捉え、
「私が救急車の音を聞いた!」と解釈した瞬間、
そこに〝私〟という幻覚が立ち上がってくる。
なので、〝私〟というものにも実体がない。
👇広東省佛山工場閉鎖の日の様子
まるで、女王アリが無数の卵を産み続けるように、
0と1でできた量子ビットの羅列となって、
0と1の、あらゆる思い(解釈)の組み合わせが、
どわーっ、と湧き上がっては消えていっている。
それらの〝解釈の波〟を、ただ兄貴に捧げ続ける。
いや、捧げるという行為もなしに(👈ここ大事!)
あらゆる不安、恐怖、心の呟き、過去の怒りや罪悪感
をむき出しにして、そのままの自分をさらけ出して、
ただただ、じっと動かずに放出し続けるのだ。
なぜならそれは、自分のものではないからだ。
実体のない思いを神に返すことが与えることになり、
そこから僕たちは、愛されていた事実を受け取る。