
👆最近、近所のヒレカツ屋の弁当にハマっている
兄貴から〝ビビビッ〟と来て(松田聖子ではない)
再度、ゲイリーの
『神の使者』と『不死という…』を読み返している。
実はこの二冊、日本へ完全帰国する際に捨ててしまい
今回、再度アマゾンで購入した。(捨てた理由はナゾ)
定価2600円の『神の使者』は2800円で、
定価2500円の『不死という…』は1100円でゲット!
2冊とも絶版になっているので、まあ妥当な価格か。

それで、今日も授業(後期授業始まった)の帰りに、
喫茶店でコーヒーを飲みながら『神の使者』を読んだ。
(家で読むと爆睡してしまうから…)
この本を読むのはもう7回目くらいなので、
最初のさわりの部分とかは飛ばし、途中から読む。

👆ヒレカツと唐揚げとエビフライのコラボが神!
久々に会うアーテンとパーサ。
「このことについては、今度詳しく説明してあげるわ」
「これについては、また別の機会に話そう!」
「真の赦しについては、次の訪問で教えるよ」
という、お約束の〝引き延ばし〟にイラつく。(笑)
それでも、読み進むうちに、
〝赦す〟とはどういうことかが、頭(意識)ではなく、
〝ハートの理解〟としてずんずん入ってきた。
というのも、僕はこれまで、赦しを実践する際、
〝誰かを憎んだ時、そこに罪はないとして赦す〟
〝夢の出来事を、ただ消えゆく姿として見過ごす〟
〝私には何もわからない、と、兄貴に全托する〟
〝聖霊を通して(聖霊と一緒に)観る〟
というような〝赦し方〟ばかりに気を取られ、
ただ赦せばいいだけなのに、それを解釈して、
マニュアル化した赦しの実践をしようとしていた。
しかし、赦すとは、何かを実践することではなく、
今この瞬間瞬間、全てを夢として赦している、
その心の在り方のことだった、と理解できた。
文字通りの〝赦す〟以外に何の解釈もくっつけず、
見えるもの、聞こえるもの、味わうもの、感じるもの、
匂うもの、思えるもの、を、ただ単純に赦している。
世界をリアルにしていた頃は、その単純なことが、
まったく理解できずにいた。

👆 注文してから作るので15分くらい待たされる
お金、身体、仕事、人間関係、思考、嗜好、空間、
あらゆる夢の創造物を赦す。
そこにはもう、赦しを実践している誰かや、
兄貴を通して見ている私、などはどこにもおらず、
〝赦す〟だけがある。
聖書も、奇跡講座のテキストも、仏教の経典も、
ただ、この単純な真理を明らかにするためだけに、
あんなにも多くの言葉を割いているのだと思った。
だから、アーテン、パーサ、
君たちの〝引き延ばし〟(笑)も赦すよ!