
「なんでこんな歩道に自転車を置いているんだ!」
というようなことまで赦す、今日この頃の僕であるが、
〝私が抜け落ちている〟〝頭の中は空っぽで無〟
と、常日頃から豪語している香港さんなのに、
「こんな歩道に自転車が」というような〝解釈〟が
湧き上がってくるのはどうしてなのか、
不思議に思う読者の方もおられるのではないか。

👆赦しの図(ハレ師匠個人講義より)
どういうことかと言うと、悟りを開いたからと言って、
「なんでこんな歩道に自転車を置いているんだ!」
という思いが出てこなくなるわけではない。
(といっても、僕は悟っているわけではなく、
認識以前の様子にちょこっと触れた程度なのだが…)
それに、悟りを開いた高僧やマスターであっても、
日々、様々な思いが自然と出てきて、それに応じて、
何かを喋ったり、何かをしたり、しているはずである。
しかし、〝わたし〟以前の真相がハッキリしていると、
思いの根っこが抜け落ちてしまっているので、
何が顕われても、全てがその瞬間瞬間に立ち上がる
完璧な活動の様子として何の問題にもならないのだ。
ただ、いくら自己の真相を悟っても、悟っただけでは、
無意識の罪悪感は癒されない。
なので、永遠にこの夢の世界を去ろうとするのなら、
〝ただそれが思えたのなら思えただけ〟ではなく、
その思いが出てくる根源にあるものを、
「なんでこんな歩道に自転車を置いているんだ!」
を通して赦して行く必要があるのだ。
ゲイリーの著書『イエスとブッタが…』の中で、
ブッタは無意識の罪悪感を完全に癒すために、
もう一度だけ生まれ変わる必要があった、
と言っているのは、この違いのことなのではないか、
と推測される。
自己に決着がついたその先にあるものを赦した時、
初めて〝本当に無かった〟ことを悟るのだろう。