
本に引いた蛍光ペンのインクが滲んだ、
喫茶店のトイレが使えなかった、という些細な事から、
自分ってなんて嫌なヤツなんだろう、という事まで、
もう世界を捨てる勢いで赦しまくっている僕である。
まあ、そうなると、身体か靈(スピリッツ)かの選択を、
日々の生活の中で、毎瞬毎瞬迫られることになる。
兄弟を身体だと見なして断罪してしまうこともあるし、
断罪している事に気づかないような微細なものもある。
それでも、僕なりに全力を尽くしている。
これってある意味、孤独で報われない作業でもある。
誰に評価される訳でもなければ、願望が叶う訳でも、
夢のような啓示体験が起こるわけでもない。
だが、赦しは、よりよい夢を見るためにあるのではなく、
夢そのものを削除して、監獄を後にするためにある、
と理解してからは、そんなことはどうでもよくなった。
長い間、罪悪感は僕の中にあると思っていた。
しかし、悟りに触れ、個の私が完全に消失してからは、
赦すべき思い込みの罪悪感は、もっと深い、
〝ひとつの意識の場所〟から湧いて来ていることが
ハッキリし、そのことを思い出して赦すようになった。
非二元で一瞥体験をし、全てはストーリー、
ただ起こっていることがおこっているだけ、となっても、
悟って、自分が無いことがハッキリしてしまっても、
それだけでは、自我を解体させることはできない。
自我の活動のようにみえることを赦していくことで、
もともと存在すらしていなかった夢の世界が消える。