
嫌な人を赦すより、愛のように見えるものを赦す方が
100倍難しいと実感している今日この頃である。
なぜなら、ムカつく上司やパートナーなら、
それは真実ではない、と手放す気満々で赦せるが、
大大大好きな歌手、人間よりも可愛がっているペット、
天職だと言える仕事、神を感じさせるようなセックス、
唯一の拠り所であるパートナーや家族や職場、
趣味の車やバイクや推し活やタイガースファン、
または、自分が創った小説や絵などの作品、など、
うわっ、これって神やん、自由やん、生き甲斐やん、
というようなものは容易に赦せないし手放せない。
なぜなら、そこには〝私が好きな…〟があるからだ。
なので、それらのものは、神の愛のようなもの、
神の代用品であって〝神の愛〟そのものではない。
愛と愛着は別物なのだ。

例えば、死ぬほど大好きな推しの歌手がいたとする。
その歌手の歌を聞きながら「うわ、大好きーっ!」
と感動に涙している分には全然大丈夫なのに、
その歌手が突然目の前に現われ「大好きー!」
と言いながら、自分めがけて駆け寄ってきたら、
怖くて反射的に逃げ出してしまうと思うのだ。
生身の人間でさえ逃げ出してしまうのに、
これが神だったら、逃げ出すどころではないはずだ。

自分が、これは愛で神だ、と思っているものを赦す。
なぜなら、それは神の代替品であり、神ではないから。
そして、神(愛)のように見えるものを一旦、
真正面に置いて、これも真実(実存)ではない、と、
本気の本気で赦すとき、本当の愛が輝きだす。
しかし、こう書くと、どうしても自我の自分は、
「心の中だけで赦せばいいんだよね」
「別に、本当に手放す必要はないんだよね」
と、無意識に〝すり替えて〟しまう。
「自分が愛おしく思えるものは神に近い感覚なので、
その感覚を呼び水にして神に繋がってゆけば、
以前よりもっとそれらが愛おしく感じられますよ」
と、ハレ師匠は言っていた。
彼が言っていることは正しい。
なぜなら、僕はその〝大好き〟な感覚を頼りに、
ハートを開いて、神の悦を感じていったのだから。
しかし、
神を感じていながら怒りや不安も感じている。
攻撃しては、神の愛に戻る。
これでは決して終われない。
もう、神以外、何にも要らない。
神のようなもの、愛のようなもの、なんて要らない。
神を感じている〝自分〟なんてさっさと終わらせて、
もと居た場所へと戻ってゆく。
何もかも要らない、を受け容れて残りの夢を過ごす。
年齢を重ねると、多くの愛着を手放せるようになる。
そういう意味で、歳を取るのも悪くないな、と思う。