
自分は初めから神を智っていたんだ、
自分はずっと神の中にいたんだ、
という理解が起こると、理由のない歓びがこみ上げ、
もう何の心配もいらないんだ、大丈夫だったんだ、
そもそも心配している自分なんていなかったんだ、
ということがハッキリした中を生き始めることになる。
この瞬間瞬間に湧き起こる葛藤を赦しながら、
その思いを兄貴に返し続けていると、最後には、
解釈しようとする思考が完全に落ち切り、
自分さえもいなかったことがハッキリする瞬間が来る。
その時、役目を終えた兄貴も喜んで消えてゆく。
そういう意味で今僕は、自分などいなかった事実を
完全に受け容れる覚悟を整えつつあるのだなと思う。
また、自分などいなかった事実を認めるということは、
同時に、神を受け入れ、認めることでもある。
ビルの壁、空、部屋の風景、着ている服の模様、
といった、目に触れて見えてくるもの、
街の喧騒、友人が語り掛けてくる声、好きな歌、
といった、耳に触れて聞こえてくる音、
また、食べ物が舌に触れて感じられる味、
山椒の香りや、お気に入りの香水、金木犀の香り、
肌に触れる風や、誰かを抱きしめた時のぬくもり、
または、それら5感に触れて湧き上がる感覚や感情、
今この瞬間に触れて感じている、その全てが、
神であり、歓びであったと智覚できたとき、
「ああ、もう何があっても大丈夫なんだ!」
「そもそも大丈夫である自分さえいなかったんだ!」
「神の喜びだけだったんだ!」
と〝真に〟悟ることになる。