あまり歩かないので、退勤のころには、
脚がタコのようにふにゃふにゃになっている。
週末は裏の森を散歩することにしよう。
ここ数日、光、光、と騒いでいるが、
降り注ぐ光は身体の中で〝たまり〟のようになり、
静かに息づきはじめている。
そして、光によってあぶりだされてくる
でっち上げられた罪悪感が、不安や憂鬱感となって、
みぞおちの辺りからびゅんびゅん上がってくる。
ムササビのような着ぐるみを着た聖霊が、
僕のみぞおちの奥に立ち、
パタパタと0と1の設定を煽り立てているようだ。
それを、消えゆく姿として、神にすべて明け渡してゆく。
今日はもう、勤務時間の9割がこれで終わった。
これまでは、どちらかといえば、差しだされた赦しを、
きちっと赦してゆくのがメインだったが、
昨日辺りから「一者の意識」というのがすごく来ている。
今日、どうしても〝ピーナッツなしの梅しそ味柿の種〟
が食べたくなり、仕事帰りにAPITAへ寄った。
レジで並んでいると、自分の列だけなかなか進まない。
見れば、レジ打ちの女の子は実習生で、
バーコードの通しから、袋入れまで、
全てにおいて動作がごゆっくりだ。
おまけにクレジットカード支払いのおばちゃんは、
レシートの内容をひとつひとつ確認し終わるまで、
頑としてサインしない様子だ。
おいおい、マジかよ!
と、込み上げるムササビ聖霊のパタパタを手放してゆく。
そのとき、カチカチと光がとフラッシュした次の瞬間、
一者としてこの光景を見ている自分に気づいた。
うまく説明できないのだが、
個人としての赦しから、一者としての全体から赦す、
という感覚に変わったのだ。
肉体や血液などの細胞のひとつひとつが個人だとすると、
細菌と戦っていたり、食べ物を消化したり、
栄養を吸収したり、毒素をろ過したり…、
と、身体の内部では
様々なせめぎ合いが展開されているにもかかわらず、
全体としての自分は静かに瞑想している、みたいな…。
その全体の自分から内部全てを赦してゆく、みたいな…。
愛と光が〝一者〟に収斂されてゆき、
自分が愛でわわわわ、と震えれば、
世界中が愛でわわわわ、となるような領域が
このレジで並んでいるほんの一瞬に観えたのだった。
こうなると、
目の前にいる肉体としてのその人がどうであるか
というのは一切関係なくなってくる。
この感覚は一瞬のことであり、
ただ、明け渡し、手放してゆくのに変わりはないのだが、
これからは、
一者の意識として赦してゆく方向になりそうだ。
それに、
光がこれから様々なことを教えてくれそうで、
ワクワクもする。
ここのところずっと頭がジンジン痺れている。
耳鳴りもすごいし、空間もぞわぞわ波打っている。
そして、やったら、眠い。
マジ、やばい。