香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

朝起きたら…

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〝 ♫ 朝起きたら~、男の態度が変わってたあ~ ♪

 

 お暇な時があったらまた来てくださいと言ったら

 

 多分わたしは一生忙しいでしょう、と言われた♬〟

 

 

昔『朝起きたら』という曲がヒットしていたが、

 

今の僕も、朝起きたら、自分の中に神がいた、

 

という、その衝撃と、感動と、安堵の中、

 

ハートが愛と悦びと感謝で〝ヒンヒン〟して、

 

定期的に、わっ、と、涙が込み上げてくる毎日である。

 

(もう〝キュンキュン〟どころではない。ヒンヒンである。)

 

 

父は、ずっと僕と一緒にいた。

 

〝解釈〟だけが唯一にして最大の問題だったのだ、

 

と、心底理解して振り向いたら、そこに父が立っていた。

 

 

神がいるのなら、私が抱えるこの問題も解決されるのか

 

という〝疑いの解釈〟だけが問題だった、と気づくこと、

 

自分はいつも、神と一緒にいたので、自分はいつも

 

〝この夢の中〟にはいなかった、と知ること、

 

それが、神に気づくためには決定的に重要だと思う。

 

 

僕の場合、みぞおちの奥の辺りにハートを感じていて、

 

そこから神(父)に触れていく感じ。

 

ただ、ハート全開、神の想念100%でいってしまうと、

 

日常でも〝イッちゃった人〟になってしまうので、

 

普段は、天城越え寸止め状態で過ごしている。

 

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常に神と一緒であることを感じていて変わったことは、

 

何と言っても、世界に対する見え方だ。

 

自分と兄弟は全く同じものだ、と100%知っているので、

 

〝神だ〟というひとつの解釈でしか兄弟を観れない。

 

これはもう、本当にそういう風にしか見れない。

 

自分に接するように兄弟と接していると、

 

俗な言い方をすれば、兄弟にとても優しくなった(笑)。

 

 

たとえ、不快感や、動揺や、怒り、を感じたとしても、

 

これっておかしいぞ、と気づいて立ち止まり、

 

はちみつを舐めた時に感じる形容できない不変の理解、

 

(ハートの体験)の中へ入ってゆくと、

 

やっぱり最後は〝神だ〟となる。

 

要するに、もう、神しかいないのだ!

 

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そういうわけで、

 

新しいアパートへ越してから、生活を楽しんでいる。

 

部屋も大好きだし、職場までの道のりも楽しい。

 

何より、見えるもの、聞こえるもの全てに神を観る。

 

 

しかし、これもまた、うまく伝えられないのだが、

 

見えるもの、聞こえるものが神なのではない。

 

なんていうか、神が反映されたものを見ている。

 

神も自分もこの夢の世界にはいないからこそ、

 

歓びそのものなのだ。 

 

 

何が起きても、起きなくても…

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土曜日はいつも、家でお籠りをして過ごしている。

 

今日は、昼から少し書き物をしたあと、

 

たまたまつけた、CS放送のニュース専門チャンネルで、

 

宮迫博之と田村亮の記者会見をやっていたので見た。

 

二時間以上に渡る生放送だったが、オールで見た。

 

 

「俺にはお前ら全員クビにする力がある。」

 

「在京5社、在阪5社のテレビ局は吉本の株主やから、

 

 このまま静観してたら、うまいこと抑えられる。」

 

「おまえらはファミリーや。ファミリーに契約書はいらん。」

 

 

という吉本興業の社長の言葉などが次々に暴露される。

 

二人はすでに契約解除をされているそうだが、そもそも、

 

契約書もないのに、契約解除ってあり得るのか。

 

 

それになにより、田村亮のやつれ方がハンパなかった。

 

頬はこけ、ホウレイ線くっきり、目の下はクマで真っ黒。

 

まあ、これと言って何か面白い事を言う訳でもないのに、

 

どうして、この人が、これまでテレビに出れていたのか、

 

いまいち分らない。これも吉本興業のチカラなのか…。

 

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⇑ チョイ姐が百合の花を活けてくれた

 

それにしても、

 

一瞬で人生が180度変わるってどんな感じなのだろう。

 

そう考えると、僕たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、

 

今日と同じ人生が続くよう努力し続けていると言える。

 

変わることを、何よりも恐れているのだ。

 

 

突然、不治の病だと宣告され、入院することになった、

 

ある日、旦那が愛人を作り、家を出て行ってしまった。

 

会社をリストラされ、生活が困窮している、など、

 

突然の災難で、僕たちの人生は一瞬で変わってしまう。

 

 

こんなとき、

 

「これは幻想で何も起こっていない、聖霊に全託します。」

 

と言ったところで、そんなの何の意味も為さない。

 

今の現状に対処してゆくだけで、いっぱいいっぱいだ。

 

それでも、

 

こういう〝ドびゅんびゅん〟な状況であるからこそ、

 

神を思い出す。

 

 

朝日の輝き、道行く人から受けたちょっとした親切、

 

床を這う蟻、タリーズで飲んだ一杯のコーヒー、

 

いつも使っているカップやテーブル、などなど、

 

眼前に広がる風景の裏で輝いている神に気づいてみる。

 

そっちが真実だ、ということを思い出してみるのである。

 

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⇑ お気に入りブランド、AT20で爆買いしてしまった 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

これまで僕は、思い込みの罪悪感を見つめ、

 

それから、原因に戻り、聖霊と一致し、選び変える、

 

といった、どちらかと言えばワプニック氏寄りの、

 

赦しの実践をしてきたわけなのだが、

 

常に神の理解が起こっていることに気づいた瞬間から、

 

自分や兄弟を聖なる神の子として観れるようになり、

 

それが聖霊と同じように考えている、すなわち、

 

すでに選び変えている、という見え方へ移行してきた。

 

 

何が起こっても起きなくても、

 

ただ、黙って、みぞおちのハートへ降りてゆき、

 

そこから、感謝と歓びの反映として世界を見ている。

 

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⇑ 今日はサクランボを買ってみた 

 

でも、自分的には、ワプニック氏の原理を学んだうえで、

 

ハート(神の想い)に戻ってゆけて本当によかった、

 

と思っている。

 

 

あるように見えている罪悪感を直視すること、

 

決断の主体へ戻り、それは起こってないと認識すること、

 

神からの分離という、たった一つの間違いに気づき、

 

聖霊に訂正を依頼してゆくこと、

 

そういう実践を徹底的にやった時期があったからこそ、

 

ハートを恐れることなく、また、

 

お花畑状態に陥ることなく、

 

神(父/天国)へアプローチしてゆけたのだと思っている。

 

地獄経由で観たものは、本当は地獄でも何でもなく、

 

全て神だった、と認識できたのは、

 

地獄経由の体験があったればこそ、である。

 

 

眼前のインテリア、食物、人、出来事を通して神を見る。

 

今の僕は、エゴを直視する代わりに、

 

ハートから世界を直視してゆくのが真実となっている。

 

 

 

それは〝神〟だ!

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住んでいるアパートの裏が市場になっていて、

 

果物、野菜、肉、魚はもちろん、花や点心を売る店が、

 

ぎっしりと軒を連ね、夜遅くまで賑わっている。

 

それで僕も最近、仕事帰りに、

 

果物なんかを買って帰ったりするようになった。

 

スーパーではなく、果物屋で売られている果物は、

 

橙色の電燈に照らされ、とてもみずみずしく見える。

 

今日は黄桃が出ていたので、ひと盛り買ってみた。

 

桃はかなり熟していて、家の流しで洗っていると、

 

桃特有の甘い香りが部屋中に拡がった。

 

夜、指で桃の皮を剥き、柔らかい塊にかぶりつく。

 

柔らかい果肉の感触と、桃の味が口の中で混ざり合い、

 

何とも言えない至福感に満たされた。

 

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と、この、桃を食べた時の形容しがたい感覚を、

 

頑張って言葉で表現してみたが、もちろん、この体験を、

 

他の誰かと100%正確に共有するのは不可能である。

 

なぜなら、

 

他者には〝桃を食べた〟という体験がないからだ。

 

 

桃を食べた時に感じる、

 

理解はしているけれど、言葉で説明できない体感、

 

または、桃を食べたという体験の裏に流れている、

 

気づいてはいるけれど、自覚はしていない歓び、

 

それが、ハートである。

 

 

そして、この底辺に流れるハートの感覚を〝神〟だ、

 

と認識するのが怖いが故に、この桃、美味しいね、とか、

 

あの人は自分にとってかけがえのない人だ、とか、

 

安室奈美恵の歌にいつも励まされている、というように、

 

〝無数の解釈〟に置き換えることで、心おきなく、

 

神を感じていられるのである。

 

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桃を味わった瞬間、自分は神に気づいている。

 

この説明しがたい歓びを、

 

本当は〝神の想い〟だったと認識している。

 

 

「ああ、なんちゃらハルシが言ってたハチミツのあれね。」

 

とか、

 

「解釈を止め、判断を止め、あるがままに感じる。」

 

とか、

 

「夢を越えた位置から幻想を見れば、解釈は無意味だ。」

 

といった、そういうものではない。

 

自分は桃を食べたからこれを味わっているのだ、

 

という解釈を取り下げ、ただ静かに黙って、

 

ひとつひとつの日常の体験の裏に流れている

 

神の想い(ハート)に気づいてゆく。

 

感じようとするのではなく、

 

たどり着こうとするのでもなく、

 

ただ、待って、気づく。

 

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以前は、

 

解釈や判断をせずに仕事をするなんて絶対に無理だ、

 

と思っていたが、解釈を取り下げるとは、

 

単に〝無〟の状態をキープすることではなく、

 

その先にある、神の歓びの想念にまで入ってゆくことだ、

 

と理解して以降、たとえ仕事中でも、解釈に気づき、

 

それを取り下げることができるようになった。

 

だって、何をしていようと、どんなに苦しんでいようと、

 

僕たちは、神の想念しか感じていないのだから…。

 

なんのことはない。

 

僕たちは、24時間天国のハートを感じていて、

 

父はいつも僕とともに在ったのだ。

 

 

今日食べた一個の桃を通して父を体験する。

 

それが、大好きな歌手の歌であれ、

 

誰かから受けたちょっとした親切であれ、また逆に、

 

自分を悩ませるあの大嫌いな人の言動であれ、

 

その裏には、神の想いが走っている。

 

そこへとたどり着くのが、今の僕の赦しとなっている。