あ、信号が赤だ➡いま道路を渡ってはいけない➡
あ、信号が青に変わった➡いま道路を渡ってもいい。
これって、
子供の頃に信号について習ったからできている、
と思っているが、実際は、自分というものなど無しに、
すでにちゃんとできている、という話である。
もっと言うと、訓練しなければ習得し得ない技能、
例えば、
ピアノを弾くという行為でさえ、自分無しにできている。
4歳で、ド、レ、ド、レ、ド~🎵と赤のバイエルを始め、
8歳で、黄色と青のバイエルを終えて、
9歳でツェル二-を弾けるようになった、と言っても、
今この瞬間、カンパネラ、を弾いているのなら、
いきなり、その曲が弾けているのである。
なぜなら、今この瞬間には、ピアノを習ってきた自分、
というものはどこにもいないはずだからだ。
ただ、ピアノがあり、指があり、音があり、感動がある。
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いま、これをしておかないと、将来、大変なことになる、
というのは完全に幻想であり、大いなる思い込みだ、。
NYから帰って和紙で無限を表現する人はそうするし、
管理職として、部下に手を焼いている人は焼いているし、
日本語を教える人は、教えるようにできているのだ。
その瞬間瞬間、やるべきことをやるようにできている。
絵描きは絵描きだし、中間管理職は中間管理職だ。
若い頃、絵描きなんかしていてはダメだ、と思って、
市役所で働いているのなら、それが今のありようだ。
絵描きなんてやっていてはだめだ、と思ったから、
いま、市役所にいるのではないのだ。
(市役所で働いている方、ただの例です。すんません)
今この瞬間に在る、今のありように委ねる、
とは、そういうことである。
これではだめだ、次はもっと…、という抵抗をやめ、
今この瞬間のありよう、だけに委ねていると、
(委ねよう、とする心さえも委ねていると…)
やがて、今のままで大丈夫な自分を発見する。
というわけで、
何だか、とっ散らかった文章になってしまった。
では、おやすみなさい。