香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

大好きが止まらない

f:id:shusaku1:20190823005858j:plain

 

これまでは、友人、通りすがりの人、リンゴ、音楽、など、

 

見たり聞いたりするものの奥に神の反映を感じて、

 

〝ヒンヒン〟と天城越えしていたのだが、

 

ここへ来て、見たり聞いたりするものを通してではなく、

 

ダイレクトに全一の神の世界を現実だと認識しながら、

 

この幻想世界に存在しつつある。

 

そうすると、この世界や、肉体の自分は〝無〟だ、

 

と完全に分かるので、幻想をリアルにしなくなる。

 

もう、神の反映として兄弟や世界を見るのではなく、

 

神そのものの存在感の自分が夢を見ている。

 

f:id:shusaku1:20190728234407j:plain

 

それでも、日常生活ではまだ、あの人がどうしたこうした、

 

と、解釈する〝自分〟は残っている。

 

神に触れ、神の存在感そのものでいるのに、

 

なんで解釈が起こるのだろう、と疑問に思ったが、

 

その自分すらも夢で〝無〟だった。

 

 

そこで、ひとつ分かったことがある。

 

それは、この世界は幻想で、無で、起こってもなかった、

 

と、真の理解が起こるには、先ず先に、

 

幻想ではない世界、つまり神の世界に触れる必要がある、

 

ということだ。

 

世界は無かった、が先なのではなく、

 

神は在った、が先手なのだ。

 

なぜなら、

 

幻想に代わる世界(神)が見えていないのに、

 

いくら、世界は無い、幻想だ、それは起こってない、

 

とやっても、本当に世界は無かったんだあーっ、

 

という〝体験と理解〟が起こっていないので、

 

恐怖で苦しくなってくるのだ。

 

 

しかしながら、もし、世界は無だ、と、

 

完全に100%認識しながら存在するようになれば、

 

身体は数年しか維持できなくなるらしい。

 

 

あっ、そう言えば、

 

ハレ師匠の肉体の〝スカスカ感〟もハンパない。

 

ということは…、ええっ…?

 

f:id:shusaku1:20190823005850j:plain

 

という感じで、毎度おなじみフィリピンにいる。

 

今回は、財務の女の子たちが、

 

僕を韓国焼肉ランチに招待してくれた。

 

 

フィリピンの事務職員の給料は大体3万円くらいなので、

 

チョコレートやクッキーなどのありふれた手土産より、

 

若い女の子が欲しがるような化粧品の方が良いと思い、

 

毎回、マツモトキヨシのようなドラッグストアで、

 

コラーゲンパックや、シミ取りクリームや、美白乳液など、

 

いろいろ買って彼女たちに渡しているのだが、

 

今回の焼肉ランチは、そのお礼なのだという。

 

 

ああ、 楽しかった!

 

 

神の気配

f:id:shusaku1:20190821002606j:plain

 

そんなこんなで、もう、大好きが止まらない。

 

何から何まで、全身で両想いの感覚…。

 

文章だと本当にうまく表現できない。

 

どうしてこうなっちゃったのか、

 

読者の皆様を招集して、ワイングラス片手に、

 

滔々と5時間くらい語りたい気分である。

 

 

そこへ至るまでのあれこれを全部はしょって言うならば、

 

自分を自分だと感じている、その存在感は、

 

実は、神の存在感だった、という話である。

 

自分がここにいる感じとは、実は神がいる感じであり、

 

故に、わたしだと感じていたものは神の気配だった。

 

実際には神しか感じてこなかったのに、

 

そこへ〝わたし〟という解釈を被せることで、

 

神を神として感じなくてよいようにしてきた。

 

 

自分が存在していると思っていたのが神であるならば、

 

神と、神の子である自分は同一のものであり、

 

よって、神と自分の間に境界線などなく、

 

父が待つ故郷へ永遠に戻るもなにも、僕たちは、

 

一度も父から離れてなどいなかったのである。

 

 

神を自分だと思いたい、というたった一つの解釈によって

 

自分が見たいものだけを見る世界を作ってしまった。

 

神はずっと気づいてくれることを待っていた。

 

これが神の臨在の意味である。

 

神の歓びの〝感じ〟は決して言葉では表せないのだが、

 

神の声はいつだって 「愛してる!本当に大好き!」

 

ただそれだけだ。

 

なので、自分に向かって、心の底から大声で、

 

「愛してる!本当に大好き!」と言えることは、

 

神を受け容れていることになる。

 

f:id:shusaku1:20190821002556p:plain

⇑ 日曜の昼過ぎ、香港警察から、

  「本日午後、ヴィクトリア公園周辺で大規模な、

  デモが行われる模様。各メディアの最新情報に

  留意してください」というSMSが入った。
 

 

日曜日、香港では170万人規模のデモが行われた。

 

その日の午後、セントラルでトレーナーと筋トレをして、

 

近くのPORKERというとんかつ屋さんで昼食を取った後、

 

僕の家があるコーズウェイベイまで地下鉄で戻ると、

 

地下通路がデモに参加する人たちでごった返していた。

 

後にも引けず、前へも進めず、進退極まるとはこの事で、

 

全くもって、一向に家へ辿り着けない。

 

やっとの思いで地上に出ると、大雨が降っていた。

 

結局、この日は、駅から1時間ほどかけて家に着いた。

 

f:id:shusaku1:20190817014051j:plain

⇑ 夜、家で葡萄をつまみながら白ワイン。

 

だが、デモ隊の人達に揉まれながら家へ着くまでの間、

 

僕は神の存在感そのものになっていた。

 

自分という存在自体が神だったことを思い出すたび、

 

形容しがたい悦びが溢れ出してくる。

 

まさに、神に囲まれているのだ、と思った。

 

 

デモをしている兄弟たちが神に見えるのではなく、

 

映像とは関係なしに、全一として神の中に溶けている。

 

なんていうか、起こってなかった、から、本当に無い、

 

に移行してしまっている。

 

 

〝無い〟が故に、赦すものも無かった。

 

現実が消えてゆく。 

 

 

神が溢れる

f:id:shusaku1:20190817014038j:plain

⇑ 近所のおしゃれカフェで創作活動

   家から歩いて30秒ですの。おーほほほっ!

 (この解釈、どないかせい! from 兄貴)   

 

連休三日目の土曜日は、お籠り三昧の一日だった。

 

といっても、ほとんど寝てた。

 

もう、誰に対しても神、何に対してもエクスタシー、

 

そして、自分の存在感さえもが神の存在感だった、と、

 

大好きが止まらない中で、これといってやることもない。

 

 

あ、そうそう、先日アップした〝法悦女子〟の記事

 

出てきた法悦女子ご本人から、

 

 

「濡れ濡れ状態、なんて書いた後に私の写真を載せたら

 

    読者の人全員が〝あ、この人は今、濡れ濡れなんや〟

 

    て、絶対思うやんかあ。」

 

 

という感想を頂いたのだが、

 

はい、そうです、この人、24時間、濡れ濡れです。

 

神に凌駕されると、神の歓びで腰くだけになり、

 

ベッドから二日くらい起き上がれなくなるそうです。

 

同じく神に触れていても、

 

元来、瞬間湯沸かし器である男性の僕は、

 

そこまでのエクスタシーに達することなどなく、

 

「どや。羨ましいやろ!」と言わんばかりな彼女に、

 

「よし。体持ってる間に絶対濡れ濡れになってやる!」

 

と聖霊に誓うボクである。(⇚ちがーうっ!by 兄貴)

  

f:id:shusaku1:20190811021614j:plain

⇑ なんか、そう言われてみると濡れ濡れっぽい。

    本人曰く,

     「(後ろから、前から)の畑中葉子みたいやろ」

  

 

自分を愛するように相手を愛すること、と、

 

相手を愛するように自分を愛することは同じである。

 

そして、愛していたのが、

 

本当は、自分でもなければ他者でもなく〝神〟だった、

 

と気づいた時はじめて、

 

与えるものと受け取るものが同じとなる。

 

 

あの人が憎い、この人は苦手、なにより自分が大嫌い、

 

と言っているのは、神を大嫌い、と言っているのである。

 

なので、自分を愛することは他者を愛することとなり、

 

他者を愛することで、自分を愛していることになる。

 

どういうことかというと、

 

自分がハッピーであればあるほど、

 

自分がハッピーで歓んでいればいるほど、

 

相手がハッピーであり、愛を受け取っていることになる。

 

また、その逆もしかりである。

 

そういう意味で僕達は、ひとつの同じ神で繋がっている。

 

f:id:shusaku1:20190728234249j:plain

 

直接、ハート(神の想念)に触れてしまえば、

 

罪悪感や恐れを直視することに意味は無くなるのだが、

 

僕の実践の経験上、玉ねぎの皮むきの時期、すなわち、

 

自分が意識の奥で何を信じているかを直視する期間は、

 

ある程度必要だ、と感じている。

 

だって、最初のうちは、

 

自分を愛するように他者を愛する、と言ったって、

 

嫌いな人は嫌いだし、腹が立つものは腹が立つから…。

 


ただ、罪悪感を直視する時に忘れてはならないのは、

 

本当に直視するべきものは、罪悪感そのものではなく、

 

神の愛(ハートの想念)だ、ということである。

 

罪悪感や恐怖の裏に〝在る〟不変の神に気づくこと、

 

これが罪悪感を直視する真の目的である。

 

 

罪悪感の正体が何かを調べるてみると、結局、

 

僕たちと一緒に歓んでいる〝神〟だった、となる。

 

 

まあ、こんな感じで、神へ戻ってゆくプロセスを、

 

柔和なレッスンとして、楽しく終えて行けばいい。

 

第一、神に苦痛なんてあり得ないし、

 

苦痛を感じながら神へ戻ってゆくなんて絶対におかしい。

 

なので、苦痛から学んでいると思ったら、それは自我だ。

 

 

歓びの感覚 (神を理解している感覚=ハートの感覚)

 

こそが本当の自分であり、そして、自分も、神も、

 

歓びそのものであるが故に同じものである。

 

その理解そのものを生きるのだ。