香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

解釈による自動仕分け

👆 心斎橋大丸でドラえもん未来百貨が開催され、

  来週日本へ来るヴィンセントの誕生日のために

  ドラえもんグッズをいくつか買う。

 

 

〝自分無しでいきなり世界〟について書いてみる。

 

〝我(わたし)〟というものが〝おっ勃って〟いた頃は、

 

意識の矢印が、自分から世界に向かっていたが、

 

自分がいる、という感覚が脱け落ちた体験のあとは、

 

世界が、そのままバーンと迫ってくる感じになった。

 

何て言うか、見えてくるもの、聞こえてくるものが、

 

いきなりやってきて、背後へ通り抜けてゆくような…。

 

自分の肉体が、人生の砂時計のくびれた部分となり、

 

様々な映像や音声や味や匂いが、砂粒となって、

 

前から後ろへと通り抜けていくような感覚なのだ。

 

 



砂粒が砂時計のくびれた部分(肉体)を通り抜ける際、

 

自分にとって、この砂粒はよくて、その砂粒はよくない

 

と、解釈による自動的な仕分けが起こっている。

 

そして、解釈された通りに、その砂粒は循環し、

 

目の前の映像や音声や味や匂いとなって顕われる。

 

特に、引き寄せの法則的スピは、全ての砂粒を、

 

〝よきもの〟と〝わたし〟が解釈することで、

 

後に映し出される現実をよくしよう、というものだが、

 

それは、空しい試み、といえるだろう。

 

なぜなら、憎いは憎い、し、死ねは死ね、であり、

 

死ね、が出た後に、それを否定して、愛してる、

 

とやったところで、死ね、が出た時点でもう、

 

死ね、という思いの砂粒は消え去っているので、

 

何をしても後の祭りなのである。

 

 

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湧き出てくる思い=自分の思い、が抜け落ちると、

 

どんな思いも、ただ今この瞬間のありようでしかない。

 

 

何が言いたいのかと言うと、

 

思いはコントロールできないし、訂正も不可能だ。

 

目を開ければいきなり見えているのと同様、

 

思いも、いきなり思えている。

 

そこに、何かを思っている〝わたし〟は存在しない。

 

要するに、

 

〝わたし〟がそれを思っているのではないのだ。

 

そして、

 

これが、一歩引いて邪魔をしない、の意味となる。

 

 

エゴイストですが、なにか?

 

 

前回の記事の続きで、

 

物書き、絵描き、は胡散臭さの典型と書いたが、

 

先日テレビで、落合皎児という油絵画家と

 

田中一村という日本画家のドキュメンタリーを見た。

 

80年代、バルセロナで活動した落合は、

 

ピカソやミロなどの巨匠と並ぶ「スペイン画家150人」

 

に選ばれ、称賛を受けていたが、日本帰国後は、

 

酒浸りで変わり者である落合の存在に振り回され、

 

妻は孤独死、次男は心を病み自殺、挙句の果てに、

 

長野のアトリエが火事になり、本人は焼死した。

 

そして、

 

長男に残されたのは、千枚の絵と1500万円の借金。

 

借金返済のため、何とか父の絵を売ろうとするが、

 

賞を取ったわけでもない父の絵は二束三文で…。

 

 

 

 

一方、田中一村は、戦前戦後に活動した日本画家で、

 

当時、水墨画を主としていた日本画を超えた、

 

あまりに斬新すぎる手法故に、日展、院展、など、

 

あらゆる賞に落選し、40歳で画壇と決別、

 

単身奄美大島に渡り、大島紬の工場で働きながら、

 

独自の創作活動を行なった。

 

しかし、絵は認められることなく、69歳で死去。

 

その後、NHKの番組で取り上げられたことで

 

人気が出て、その名が知られるようになる。

 

そして、番組の中で、彼が1973年に描いた、

 

《不喰芋と蹉跌》という絵を見た瞬間、なぜか、

 

僕の目に、わーっ、と涙がこみあげてきた。

 

絵を見て涙を流すなんて、生まれて初めてだ。

 

しかもパソコンの画面越しに、である。

 

 

👆田中一村。不遇な作家と言われるけれど、

     好きな絵だけを描いて人生を過ごせて、

  本人は絶対に幸せだったと思う。

 

 

この二人の〝絵描き〟に共通して言えるのは、

 

誰かに迎合するような絵など死んでも描かない、

 

という決然とした覚悟と信念だ。

 

そもそも、彼らの才能を以ってすれば、

 

万人受けする絵など、ちょちょちょ、ぱ、ぱ、ぱ、

 

と描けてしまうはずなのだ。

 

しかし、たとえ無一文で野垂れ死んだとしても、

 

そんな卑しいことはしない、という信念…。

 

 

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僕もまた、そんな生き方をしたいと思っていた。

 

しかし、結果はサラリーマンでここまで来た(爆)

 

会社員が好い、とか、悪い、とかではなく、

 

要するに、

 

人からどう思われるかを気にして生きてきたのだ。

 

そしていま 「これが俺だ、文句あるかあーっ!」

 

というような作品を生み出す決心がつきつつある。

 

たとえ自分が肉体を脱いでも、作品は残ると思うから。

 

 

 

👆 人喰芋と蹉跌
   もう完全に日本画の枠を超えている

 

 

あ、そうだ。いいこと思いついた!

 

〝つくし画伯の絵〟を今のうちに買っておけば、

 

画伯がご逝去されたあと(笑)、

 

その絵が何千万円に化ける、かも…。

 

え?

 

つくし姉さんが体を脱いで父の元へ帰る頃には、

 

俺もほぼ、

 

天国へ召されるお年頃だって?(共にアラカン…)

 

ていうか、男の平均寿命の方が短いやんけ!

 

きいぃーっ!

 

 

👇つくし画伯、個展されるみたいです

tsukushiworks.blogspot.com

 

胡散臭い、上等!

 

 

その人が誰で、どんな人であるか、

 

その人、本人のイメージを形作っている

 

大きな要因のひとつに〝職業〟がある。

 

特に日本では、どんな職業に就いているかが、

 

その人を判断する、大きな材料になっていたりする。

 

例えば、

 

公務員なら、真面目で常識的、くいっぱぐれがない、

 

医者なら、お金持ち、頭がいい、頼れる、偉そう、

 

職人さんなら、頑固、特別なこだわり、忍耐強い、など

 

この職業の人ならこんな感じ、というイメージがある。

 

また、その仕事が儲かるか否か、華やかかどうか、

 

そうそう簡単にはなれないような職業か、によって、

 

その人を、すごいと思ったり、ショボいと思ったりする。

 

はては、その仕事をすることで得られるステータスを、

 

〝自分〟だと思っている人も多く、専業主婦だって、

 

旦那の職業を自分のステータスにしていたりする。

 

 

まあ、生きている限り、お金を稼がねばならない訳で、

 

人生の大半の時間を金儲けに費やしているのだから、

 

どんな仕事をしてお金を得ているのか、に、

 

本人の生き様や人生が反映されるのは当然であり、

 

よって〝職業=自分〟という考え方は、

 

あながち間違ってはいないのかもしれない。

 

 

👆 顔、怖い!

 

じゃあ、無職で何もしていない人はどうなるのか、

 

自分(アイデンティティ)がないのか、という話になる。

 

あいにく日本では、

 

仕事をしていない人は胡散臭い、怪しい人、

 

と、反射的に思う傾向が強い気がする。

 

僕が香港から日本へ帰国したあと、

 

実家を出て、部屋を借りる際、

 

仕事がないと審査が通らないと言われ、

 

2万円払ってウソの在職証明書を作ってもらい、

 

ようやく今の部屋を借りることができた。

 

このとき、いくらお金があっても、働いてないと、

 

ちゃんとした人として認めてもらえないんだと思った。

 

なぜなら、香港や台湾では、仕事を早々にリタイアし、

 

好きなことだけをして生きている人が、

 

すごい、と羨ましがられ、目標とされているからだ。

 

逆に日本では、70歳でも現役で働いている人が

 

すごい、と言われるが、ドMもいいとこである。

 

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僕はこれまで、一生懸命、何かになろうとしていた。

 

多くの人から称賛されるような作家になろう、

 

会社では、みんなから頼られる上司になろう、

 

スピ的には、精神的に目醒めた自分になろう、と、

 

いろいろなことをしてきたが、ここへきて、

 

何者でもない自分がとても心地よく思えている。

 

まあ、物書き、絵描き、などはもう胡散臭さの典型で

 

いまはもう、とことん、胡散臭い人生を生きることが、

 

なんだか、かっこいい、と思えるようになっている。

 

ていうか、それ以外道はない、というのが本音だ。