👆 心斎橋大丸でドラえもん未来百貨が開催され、
来週日本へ来るヴィンセントの誕生日のために
ドラえもんグッズをいくつか買う。
〝自分無しでいきなり世界〟について書いてみる。
〝我(わたし)〟というものが〝おっ勃って〟いた頃は、
意識の矢印が、自分から世界に向かっていたが、
自分がいる、という感覚が脱け落ちた体験のあとは、
世界が、そのままバーンと迫ってくる感じになった。
何て言うか、見えてくるもの、聞こえてくるものが、
いきなりやってきて、背後へ通り抜けてゆくような…。
自分の肉体が、人生の砂時計のくびれた部分となり、
様々な映像や音声や味や匂いが、砂粒となって、
前から後ろへと通り抜けていくような感覚なのだ。
砂粒が砂時計のくびれた部分(肉体)を通り抜ける際、
自分にとって、この砂粒はよくて、その砂粒はよくない
と、解釈による自動的な仕分けが起こっている。
そして、解釈された通りに、その砂粒は循環し、
目の前の映像や音声や味や匂いとなって顕われる。
特に、引き寄せの法則的スピは、全ての砂粒を、
〝よきもの〟と〝わたし〟が解釈することで、
後に映し出される現実をよくしよう、というものだが、
それは、空しい試み、といえるだろう。
なぜなら、憎いは憎い、し、死ねは死ね、であり、
死ね、が出た後に、それを否定して、愛してる、
とやったところで、死ね、が出た時点でもう、
死ね、という思いの砂粒は消え去っているので、
何をしても後の祭りなのである。
湧き出てくる思い=自分の思い、が抜け落ちると、
どんな思いも、ただ今この瞬間のありようでしかない。
何が言いたいのかと言うと、
思いはコントロールできないし、訂正も不可能だ。
目を開ければいきなり見えているのと同様、
思いも、いきなり思えている。
そこに、何かを思っている〝わたし〟は存在しない。
要するに、
〝わたし〟がそれを思っているのではないのだ。
そして、
これが、一歩引いて邪魔をしない、の意味となる。