今この瞬間のありように委ねて過ごす、というが、
例えば、
ジムで筋トレをしている時、自分の使いたいマシンが
他の人に使われていたとする。
しかも、そいつは、
マシンに腰かけたまま、ずっとスマホをいじっていて、
筋トレをするわけでもなければ、離れる気配もない。
要するに、マシンをベンチ代わりに使っているのだ。
筋トレには、鍛える部位の順番があるので、
このマシンが使えないから、こっちを先にやろう、
というわけにもいかない。(はい、実際の話です)
なので、こんな輩(大抵はデブ)に遭遇すると、
これまでの僕だったら、ムッカッー、ときて、
心の中で、相手に平手打ちを食らわせているか、
スタッフに言って注意してもらったりしていた。
しかし、今この瞬間のありよう、そのものになり、
外界で起きていること全てに委ねきっていると、
このマシン占領男を完全に信頼していいと思えてくる。
また、このマシン占領男が、わざわざ僕のために、
長時間スマホをいじりながらマシンに居座って
〝くれて〟いるようにも感じられてくる。
(もちろんその時のありようで、感じられない時もある)
それですでに、このままの完璧なありよう、
であることがはっきりした瞬間、
愛ある〝感じ〟そのものであることが明らかになり、
チョクで〝ヌレヌレボッキン〟になってしまう。
本当にベタな表現になってしまうが、
彼と自分は完璧なそのもので活動している。
だが、このように書くと、どうしても、
全ては好いことのために起きている、とか、
全ての人や事や物の奥に愛を感じる、というような、
ステレオタイプの考え方で納得されてしまいがちだが、
そうではなく、意識が〝解かろう〟とするその前に、
すでに、見えているし、聞こえているし、匂えているし、
味わえているし、感じられているし、思えている。
要するに、
そこには納得させるべき〝自分〟などいない。
もう、それそのものが完璧にでーんと機能している。
そこに、神に触れた時の悦びがある。
ただ、僕と、
非二元の覚者や、悟り系のマスターや、
悟った禅の僧侶のひとたちと違っている点は、
今この瞬間のありようから、法悦を感じている。
24時間〝天城越え〟そのものとなっている。
悟り系の覚者や、解放が起きた禅僧の方たちは、
ただ〝これ〟しかない、
〝それ〟そのものの事実が在るだけで、
愛などと言っている時点でもう真実からズレている、
または、苦しみもない代わりに喜びもない、と、
愛や神を否定していたりするが、僕の場合には、
法悦がギンギンに満ちている〝体感〟がある。
(といっても、
体感している誰かがいるわけではなく…)
これが、ハレ師匠がいつも力説していた、
非二元と、純粋非二元の違いなのだと思う。
そう、悟りのその先には〝神が在る!〟
のだ。