香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

冬休みいただきます!

 

 

というわけで(ってどういうわけ?)、

 

大学が冬休みになったこともあり、

 

このブログも、

 

春まで、冬休みに入らせていただきます。

 

寒い寒い冬の間は、暖かい部屋で冬ごもり…。

 

その間、創作活動に専念するつもりです。

 

創作、ときどき、筋トレ&飲み屋、

 

みたいな…。(逆かも…)

 

今年も色々な事がありましたが、

 

苦しめない自分、悩みようのない自分、

 

もっと言えば、

 

そんな自分さえもいないことがはっきりしたのが、

 

何よりもうれしい一年でした。

 

そして、その先に、言葉では到底表現できない、

 

愛の悦び(神のエクスタシー/本質・実相の悦)

 

そのものの体験でいられたこと…。

 

 

読者の皆様、

 

今年も本当にありがとうございました。

 

また、桜の便りが届く頃にお会いしましょう。

 

ではみなさん、よいお年を!

 

 

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思いに悩む

👆 日本酒の飲み過ぎで、顔が真っ赤やん!

 

 

あらゆる苦しみの原因は、

 

思える(解釈できる)、という機能に起因しており、

 

まさにそれだけが問題だった、という話である。

 

 

まあ、非二元しかり、引き寄せしかり、悟り系しかり、

 

バシャールしかり、あやこさんなどの統合系しかり、

 

殆どのスピは、この解釈をどうにかするためにある、

 

と言っても過言ではない。

 

奇跡講座で言えば、

 

何かを見たり、聞いたりしたことを意識が捉えて、

 

そこから何かを思い、思ったことを解釈する。

 

そして〝こんな解釈をしてしまった自分〟を、

 

聖霊兄貴に委ね、自我によって歪められた解釈を、

 

神という一つの解釈に訂正してもらうのだ。

 

赦しの3ステップは、

 

解釈から出てきた罪悪感や恐怖や不安感を、

 

一瞬直視して、兄貴に明け渡したら、後のことは、

 

兄貴に全委任して一切関わらない、というものだが、

 

この一切関わらない、というのがクセモノで、

 

いくら赦しても、恐怖や不安を煽るような出来事が、

 

次々に起こってくるので、関わらずにいられない。

 

 

👆 冬ごもりに際して、先ずはワインのストック

 

 

目が見えたり、耳が聞こえたりするのと同じように、

 

思える、という機能が人間に備わっている限り、

 

解釈が起きてこなくなる、なんてありえない。

 

また、不安や恐怖だけを兄貴に取り除いてもらい、

 

愛や感謝の思いだけになる、なんてもっとない。

 

どんな思いや感情が出て来ても相手にせずにいると、

 

見えてくるものや聞こえてくるものと、

 

思い(解釈)との間には、何の関係もなく、

 

見えたから思えた、それを聞いたからこう思った、

 

ではないことが分かってくる。

 

そうなるとやがて、ただ思ってるだけじゃん、となり、

 

自分が思っているのではなかった、となり、

 

最後は、何が思えても大丈夫になってくる。

 

アンフィニ時代に、あやこさんがよく言っていた、

 

起こっているのは自分の中だけ、というのは、

 

本当にそうだった、といまなら心底腑に落ちて分かる。

 

そう思えている、だけで、外では何も起こってない。

 

 

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思いに対して何もしない、思いを相手にしない、

 

それが赦しであり、聖霊に明け渡すことである。

 

なので、赦しとはどういうものかということを、

 

僕は、悟りを通じて学び、赦しの後に見える世界を、

 

奇跡講座から教えてもらった、といえる。

 

 

いきなりの輝き

 

 

あ、信号が赤だ➡いま道路を渡ってはいけない➡

 

あ、信号が青に変わった➡いま道路を渡ってもいい。

 

これって、

 

子供の頃に信号について習ったからできている、

 

と思っているが、実際は、自分というものなど無しに、

 

すでにちゃんとできている、という話である。

 

もっと言うと、訓練しなければ習得し得ない技能、

 

例えば、

 

ピアノを弾くという行為でさえ、自分無しにできている。

 

4歳で、ド、レ、ド、レ、ド~🎵と赤のバイエルを始め、

 

8歳で、黄色と青のバイエルを終えて、

 

9歳でツェル二-を弾けるようになった、と言っても、

 

今この瞬間、カンパネラ、を弾いているのなら、

 

いきなり、その曲が弾けているのである。

 

なぜなら、今この瞬間には、ピアノを習ってきた自分、

 

というものはどこにもいないはずだからだ。

 

ただ、ピアノがあり、指があり、音があり、感動がある。

 

 

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いま、これをしておかないと、将来、大変なことになる、

 

というのは完全に幻想であり、大いなる思い込みだ、。

 

NYから帰って和紙で無限を表現する人はそうするし、

 

管理職として、部下に手を焼いている人は焼いているし、

 

日本語を教える人は、教えるようにできているのだ。

 

その瞬間瞬間、やるべきことをやるようにできている。

 

絵描きは絵描きだし、中間管理職は中間管理職だ。

 

若い頃、絵描きなんかしていてはダメだ、と思って、

 

市役所で働いているのなら、それが今のありようだ。

 

絵描きなんてやっていてはだめだ、と思ったから、

 

いま、市役所にいるのではないのだ。

 

(市役所で働いている方、ただの例です。すんません)

 

今この瞬間に在る、今のありように委ねる、

 

とは、そういうことである。

 

 

これではだめだ、次はもっと…、という抵抗をやめ、

 

今この瞬間のありよう、だけに委ねていると、

 

(委ねよう、とする心さえも委ねていると…)

 

やがて、今のままで大丈夫な自分を発見する。

 

というわけで、

 

何だか、とっ散らかった文章になってしまった。

 

では、おやすみなさい。