香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

純粋非二元

 

 

今この瞬間のありように委ねて過ごす、というが、

 

例えば、

 

ジムで筋トレをしている時、自分の使いたいマシンが

 

他の人に使われていたとする。

 

しかも、そいつは、

 

マシンに腰かけたまま、ずっとスマホをいじっていて、

 

筋トレをするわけでもなければ、離れる気配もない。

 

要するに、マシンをベンチ代わりに使っているのだ。

 

筋トレには、鍛える部位の順番があるので、

 

このマシンが使えないから、こっちを先にやろう、

 

というわけにもいかない。(はい、実際の話です)

 

なので、こんな輩(大抵はデブ)に遭遇すると、

 

これまでの僕だったら、ムッカッー、ときて、

 

心の中で、相手に平手打ちを食らわせているか、

 

スタッフに言って注意してもらったりしていた。

 

 

しかし、今この瞬間のありよう、そのものになり、

 

外界で起きていること全てに委ねきっていると、

 

このマシン占領男を完全に信頼していいと思えてくる。

 

また、このマシン占領男が、わざわざ僕のために、

 

長時間スマホをいじりながらマシンに居座って

 

〝くれて〟いるようにも感じられてくる。

 

(もちろんその時のありようで、感じられない時もある)

 

それですでに、このままの完璧なありよう、

 

であることがはっきりした瞬間、

 

愛ある〝感じ〟そのものであることが明らかになり、

 

チョクで〝ヌレヌレボッキン〟になってしまう。

 

本当にベタな表現になってしまうが、

 

彼と自分は完璧なそのもので活動している。

 

 

だが、このように書くと、どうしても、

 

全ては好いことのために起きている、とか、

 

全ての人や事や物の奥に愛を感じる、というような、

 

ステレオタイプの考え方で納得されてしまいがちだが、

 

そうではなく、意識が〝解かろう〟とするその前に、

 

すでに、見えているし、聞こえているし、匂えているし、

 

味わえているし、感じられているし、思えている。

 

要するに、

 

そこには納得させるべき〝自分〟などいない。

 

もう、それそのものが完璧にでーんと機能している。

 

そこに、神に触れた時の悦びがある。

 

 

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ただ、僕と、

 

非二元の覚者や、悟り系のマスターや、

 

悟った禅の僧侶のひとたちと違っている点は、

 

今この瞬間のありようから、法悦を感じている。

 

24時間〝天城越え〟そのものとなっている。

 

 

悟り系の覚者や、解放が起きた禅僧の方たちは、

 

ただ〝これ〟しかない、

 

〝それ〟そのものの事実が在るだけで、

 

愛などと言っている時点でもう真実からズレている、

 

または、苦しみもない代わりに喜びもない、と、

 

愛や神を否定していたりするが、僕の場合には、

 

法悦がギンギンに満ちている〝体感〟がある。

 

(といっても、

 

 体感している誰かがいるわけではなく…)

 

これが、ハレ師匠がいつも力説していた、

 

非二元と、純粋非二元の違いなのだと思う。

 

 

そう、悟りのその先には〝神が在る!〟

 

のだ。

 

 

ふたつ思えない

 

 

僕たちは、ふたつの事を同時に思えない。

 

「なんであの人、あんな事を言うんやろ」という思いと、

 

「今日のお昼、何食べようかな?」という思いを、

 

同時に思うことができないのだ。

 

 

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例えば、仕事中の同僚の動きや言葉に反応して、

 

コンチキショー、こいつ馬鹿か、あ、ミスった、と、

 

様々な思いが浮かんできても、

 

その瞬間瞬間の思いは絶対にひとつだけであり、

 

ちゃんとコンチキショーの後に、こいつ馬鹿か、

 

と思えるようになっている。

 

瞬時に完結していて、まったく重なっていない。

 

 

「スーパーで、ニンジンと大根、どちらを買おうか。

 

 昨日カレーやったから、今日はおでんにしよう。

 

 でも、今日は大根高いしなあ…」

 

と悩んだとしても、どちらを買おうか、おでんにしよう、

 

大根高い、という思いが瞬間瞬間に顕れてきており、

 

昨日カレーやった、と、大根高い、は独立していて、

 

何の関連性もない。

 

 

「頭が痛い、鎮痛剤を飲んでも治らない、どうしよう」

 

も、頭が痛い、と、どうしよう、は同時に思えないので、

 

頭が痛い、という思がある時は、頭が痛い、しかない。

 

だから、絶対に迷えないし、悩めない。

 

逆に言えば、

 

ふたつ思えないので、どうしよう、と思っている時は、

 

頭が痛い、は無くなっているはずである。

 

実際にやってみたら、そうなってるのが分かる。

 

 

ただ、目で見えたり、耳で聞こえたりしてくる、

 

周囲の動きや音に反応して、出てくる思いも、

 

ものすごい速さで変化していっているために、

 

次から次へと色んな事を、同時多発的に考えている

 

ように錯覚してしまっているだけである。

 

 

こいつ馬鹿か、と思った時は、こいつ馬鹿か、しかなく

 

その前のコンチキショーはもう消えている。

 

大根高いなあ、という思いが出てきた時にはもう、

 

ニンジンと大根どちらを買おうか、はなくなっている。

 

頭が痛いときには、頭が痛いしかなく、

 

そうであるからこそ、安心なのだ。

 

 

そしてこの、

 

ひとつの事しか思えない(見えない、聞こえない)、

 

という機能に救われること、

 

それが解放であり、幸せな夢である。

 

 

 

あの人に会いたい【平岩弓枝/宮本輝】



秋が深まりつつある今日この頃(ほんまか?)

 

今の僕は、生みの苦しみの真っ只中にいる。

 

どうしても表現したい題材があるのに、

 

その内容があまりに濃すぎて(深すぎて?)、

 

どう表現すればいいのか見当もつかず、

 

毎日、ウンウン唸り続け、のたうち回っている。

 

最初、ひとりの主人公の視点から書き始めたのだが、

 

どうしても、主人公のキャラが立ってくれない。

 

一章ごとに主人公が異なるオムニバス形式で書けば、

 

ストーリーは体裁よくまとまるのだが、

 

中身すっかすか、登場人物もぺらっぺら、

 

なものになってしまう。

 

この作品を書くために、仕事までセーブしているのに、

 

という焦りがまた、びゅんびゅんに拍車をかける。

 

 

 

 

と、そんな中、ある啓示が立て続けにきた。

 

夕飯を食べながら見ていた、NHKプラスの番組、

 

〝あの人に会いたい〟の中で小説家平岩弓枝が

 

語っていた言葉が、バーンと胸に刺さったのだ。

 

 

〝小説と言うのはね。物語を書くんじゃないんだよ。

 

 人間を書くんだ。人間の生き様は一人一人ちがう。

 

 世の中の歴史に残らなかった平凡な人の中にこそ

 

 目を見張るような非凡な生き方があるんだよ。

 

 そういうすごい生き方が見えるようになったとき、

 

 物書きの目は、すっ、と開かれるんだ!〟

 

 

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ああそうか、僕は物語を書こうとして、

 

登場人物を〝コマ〟のように扱っていた。

 

でも、人間を書くってどういうこと?

 

そう思っていた時、

 

突然、朝起きる間際の、夢うつつの状態の時、

 

宮本輝の『星々の悲しみ』の出だしの言葉が、

 

これまたバーンと鮮明に出てきた。

 

 

〝その年、僕は百六十二編の小説を読んだ。

 

 18歳だったから1965年のことだ〟

 

 

あくる日『星々の悲しみ』を取り出して読んでみた。

 

短編小説なので1時間ほどで読めた。

 

彼は徹底的に〝人間〟を書くことで、

 

人、物、事、風景、あらゆる変化するものの中から

 

絶対に変わらないものを炙り出している。

 

それは僕に対して「おのれ自身を偽らずに書け!」

 

と言っているような気がして、はっと身震いした。

 

〝私小説〟なんて思いもしなかった。

 

そう言えば、僕の敬愛する張賢亮先輩の

 

『男の中の半分は女』も私小説だった。

 

〝私はこんなにエロいです。これが私です。以上!〟

 

カッコつけず、人にどう批評されるかも気にせず、

 

おのれをさらけ切った小説だったからこそ、

 

僕はこの小説に魂を揺さぶられたのだ。

 

 

ようし、俺もいっちょやったるでー!

 

先輩方には負けへんでー!