香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

手続きいろいろ

 

 

毎日、

 

様々な手続きのため、あちこち奔走している。

 

昨日は、国民健康保険の手続きに行って来た。

 

僕は30年間、被用者保険に加入していたため、

 

自由業の人が加入する国民健康保険に

 

切り替える必要があった。

 

しかし、離職票がなかったので申請できなかった。

 

すぐ、コンババ部長に電話をし、

 

離職票を送付してくれるよう依頼した。

 

まあ、お役所関係は、一筋縄でいかないことは

 

覚悟していたが、あえなく撃沈、また出直しである。

 

 

 



 

帰りに、いくつかのジムを見学して回った。

 

高槻市には、ゴールドジムやコナミやティップネス

 

それから、ミルクボーイが宣伝しているエニタイム

 

など、他にもたくさんのジムが点在している。

 

どれも24時間営業で、靴やタオルやウェアも、

 

料金に含まれ、会社帰りに手ぶらで通えたりする。

 

そして今、

 

ティップネスとゴールドジムの間で迷っている。

 

マシーンの充実度はダントツでゴールドジムだが、

 

ティップネスにはプールと露天風呂があるのだ。

 

二つのジムの間で揺れに揺れ、結局、

 

筋トレの充実度優先でゴールドジムに入会した。

 

パーソナルトレーナーも頼もうと思ったが、

 

なんか高齢者の健康維持的なノリで、

 

ガンガンに追い込んでくれそうな感じではなく、

 

しばらく様子を見てみることにした。

 

 



 

そして今日は、

 

二年半前に日本を出国した際の出国スタンプを

 

パスポートに押して貰いに関西空港へ行ってきた。

 

失業保険の申請には、僕が会社を辞めた時に、

 

外国にいたことを証明するものが必要がだった。

 

しかし、僕は自動化ゲートで出国していたため、

 

パスポートに出国のスタンプが押されていない。

 

それで、どうしたらいいですか、と、

 

出入国管理局に電話したら、関空の審査課で

 

スタンプを押してもらえますよ、と教えられた。

 

それでわざわざ関西空港まで行った来たのだ。

 

ここでも職員の人たちはとても親切で、

 

出国のスタンプが、入国のスタンプの

 

後ろにならないよう気を使って押してくれた。

 

 

👆 今日の国際便到着はこれだけ


 

空港は相変わらず人気もなくガラガラだった。

 

ほとんどの店も閉まっている。

 

パソコンを持ってきていたのでサンマルクカフェで

 

2時間ほど小説を書いて過ごした。

 

 

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今日、離職票も届いたので、

 

明日は健康保険証の手続きに再トライである。

 

日本国民に戻るのもなかなか大変である。

 

 

整いました

👆香港最後の〝修脚〟(足の裏の角質取り)

 

 

前回、真実を智るために何もすることはない、

 

と書いたが、ただ唯一やれることがあるとすれば

 

首から上で展開されている六感の営み、

 

その一点に集中し、目を向け続けることである。

 

すなわち、これはどういうことだろう、と、

 

探っていこうとしたり、考え方で追求しようとする

 

〝自分〟の思いを歯牙にもかけず、ただ、

 

六感(見る/聞く/かぐ/味わう/触れる/感じる)

 

に注意を向け続けることである。

 

 

簡単に言えば、何も考えないことである。

 

これはどういうことなんだろう、これでいいのか、

 

これではだめだ、という思いを一切取り合わず、

 

今この瞬間に耳目をそば立て、注視し続ける。

 

 

この無条件の営みは、実践などしなくても、

 

その通りに見えるようになっていて、

 

その通りに聞こえるようになっていて、

 

その通りに味がするようになっている。

 

勝手に湧いてくる思いだってそうだ。

 

こいつムカつく、と思ったときは、

 

間違いなく、ムカつく、という思いだったのだ。

 

なのに、すぐに、よいか悪いか、好きか嫌いか、

 

を判断し、そこから罪悪感や優越感を生み、

 

自ら、どうすれば、と思い悩むのだ。

 

そんな良し悪しや好き嫌いを一切相手にせず、

 

目の前にある、見えるまま聞こえるままの営みに

 

注意を向け続けてみる。

 

 

好いか悪いか、好きか嫌いか、

 

という思いが立ち上がってくる裏に、

 

過去の記憶がある。

 

過去の記憶から、良し悪しが出てくる。

 

しかし、過去の記憶は、過去のその時に、

 

すでにカタがついて消えていったものである。

 

 

会社でテンパっているとき、大失敗しそうなとき、

 

大切な人を失ったとき、悩み苦しんでいるとき、

 

僕たちは、なんとか平安に振れ幅を戻そうとする。

 

しかし、ランニングをしているときに、

 

家でくつろいでいるときの呼吸でいようとしても、

 

所詮無理なのと同様、不安なまま平静でいよう

 

として何かを実践してもそんなの不可能なのだ。

 

ランニングしている時と歩いている時とでは、

 

呼吸が違うのは当たり前である。

 

なので、ランニングをしている時は、

 

ハアハア息が上がって、それでカタがついている。

 

 

だから、緊張しきって、悲しみきって、怒りきって

 

その時の状況そのものですでに整っているのだ。

 

 

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これまでの生活の中で、対象だと見ていたものが

 

実際にはそうでははなかったということ、

 

何の矛盾のない生きざまができているということ

 

全活動がそのまま直で営みであるということ、

 

すでにそれで救われ切っている。

 

 

 

むき出しの神

 

 

目で、対象となる何かを見ているのではない。

 

耳で、対象となる何かを聞いているのではない。

 

肌で、対象となる何かを感じているのではない。

 

鼻で、対象となる何かを嗅いでいるのではない。

 

口で、対象となる何かを味わっているのではない。

 

脳で、対象となる何かを解釈しているのでもない。

 

 

みんな本当は、見たり、聞いたりしているものを、

 

ダイレクトに自分そのものとして生活しているのに

 

それをきちんと智覚している人は皆無に等しく、

 

ほとんどの人は、

 

見えているもの、聞こえているものを、

 

自分以外のもの(対象物)として捉らえている。

 

じゃあ、自分そのものとして生活しているとは

 

どういう事なのかというと、

 

例えば、コーヒーを飲む時、本当は、

 

何の意図もなしに、ふとコーヒーを飲もうと思い、

 

自ずとカップを手に取って味わっているのに、

 

〝私〟コーヒーを飲んでいると思いこんでいる。

 

私という認識が立ち上がった途端、

 

私以外のもの全てが〝対象〟となってしまうのだ。

 

真実はどうかというと、

 

このコーヒーは美味い、とか、不味い、の前に、

 

直接ダイレクトに〝その味〟だけがある。

 

 

 

 

 

見えているものそのものが私の在りようであり、

 

聞こえているものそのものが神の営みである。

 

そこに、個として何かをしている誰かはいない。

 

別の言い方をすれば、

 

見る、聞く、かぐ、味わう、触れる、といった、

 

五感に反応して立ち上がる思いの営み全てが、

 

神そのものの様態(在りよう)だと言える。

 

 

神の様態とは、今この瞬間の営みのことである。

 

それは、自分という思い込みを通さずに、

 

首から上で直(じか)に展開されている。

 

そういう意味で、悟りとは、

 

自分の外側にあると思っていた対象物が、

 

実は対象なんかではなかった、

 

ということが明らかになることであり、

 

これまで〝自分〟と思っていた気配が、

 

考え方の中で作られた思い込みでしかなかった

 

ことがハッキリすることである。

 

 

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故に真実は〝今の営み〟の在りようだけである。

 

今の営みには、何も引きずっているものがない。

 

完璧に、跡形もなく消えていっている。

 

例えば、ケーキを食べている今のこの瞬間、

 

昨日食べたトンカツの味を引きずることなど

 

できないようになっている。

 

 

そして、それには何の修行も努力も必要ない。

 

何年も勉強してやっと、

 

アイスクリームの味が解かるようになりました、

 

なんて言う人がいないのと同様、

 

一生かけて実践や修行に精進しなければ、

 

神を智ることができない、夢から脱出できない、

 

なんてありえない。

 

神の活動はすでに、この目で見え、

 

この耳で聞こえ、この肌で智覚されている。