香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神の大作


↑国境を越えて


『奇跡講座』を学びはじめて2年9か月になるが、

いまだにテキストを読み終えていない。

やっと25章に入ったところだ。

しかし、ふと、その気になってページを開くと、

ドンピシャで今の自分に必要なことが書かれていて、

あ、兄貴ぃーっ、と、うるうるすることがある。

そういう時、いまこの箇所を読めてよかった、と思う。

それに、読破することが目的ではないよ、って、

のりちゃん先生も言ってたから、これでいいのだ。

(でたぁーっ。ご都合スピリチュアル!)


で、今日の昼休み、

他に読む本がなくて(笑)、奇跡講座を開いた。

〝闇からの救済者〟のページからだった。

闇の額縁と神の額縁のところだ。

〝闇の中に、闇からの救済者を見なさい。〟

〝彼(兄弟)が自分の中にある大作を見落としていて、

 闇の額縁しか見ていないとしても、

 彼の中に、彼が見ていないものを見ることが、

 あなたの唯一の機能である〟

〝あなたの兄弟を赦しなさい。

 そうすれば、あなたは自分自身を兄弟からも、

 彼の父からも分離させることはできなくなる。

 あなたは赦しを必要としていない。

 なぜなら、神の前に清らかな者は、

 罪を犯したことは一度もないからである。〟


少し難解な文章ではあるのだけれど、

なぜか、この部分で、うるうる来てしまった。


あるイメージが去来した。

黄金の額縁には、色とりどりの宝石があしらわれ、

美しい装飾が施されている。

その額縁には、一面真っ白で荘厳な光が描かれた

神の大作が嵌め込まれている。

しかし僕たちは、退屈な神の大作そのものよりも、

神の画から放たれる白金色の光に透かされ、

この世のものとも思えないほどの美しさに輝く、

額縁のほうに夢中になっている。

そして、

なんとか相手の額縁の美しさを自分のものにしようと、

分離した額縁同士が争っている。


闇の額縁(個の肉体としての兄弟や自分)ではなく、

神の額縁(聖霊)を通して、絵自体(神の聖性)を見よ、

と言われているようで、ぐぐっ、と来た。


これまで、

〝ひとつなるもの〟とか〝一者なるもの〟というとき、

どこか、丸い大きな球体のようなものを想像していた。

なので、無数に分離したように見えている兄弟と、

ひとつなる球体のイメージとを、

どうしても、実感として結び付けられずにいた。

しかし、今日、闇の額縁の文章を読んで、

様々な肉体を持ち、様々なことをしているように見える

兄弟ひとりひとり(額縁)の奥に、

全く同一の神の聖性(絵)があり、そして、それは、

どれも全く同じ画である。

ということは、それぞれが同じ完全な聖性を共有する

〝ひとつのもの〟〝一者なるもの〟ということだ。


要するに、兄弟は自分と寸分たがわぬもの、よって、

神と同一のもの、ということである。


僕たちは、それぞれに異なる額縁の方ばかりに

気を取られているが、中の画は全て同一である。


↑中国側に入ったところ
と言うのも、この日の午前中、

ふぁちゃんと新しく入った人事部の課長が、

どちらが給与計算をするか揉めていたり、

すでに辞めた人事部長が、自分の給料を、

わざと水増しして計算していたことが発覚したりして、

気がつけば、額縁に気を取られている状態だった。


〝エゴが気をそらせようとする際に好むのは、

 他人の動機を判断したり、

 相手が取る特定の行動に焦点を当てたり、

 人の言動や物事の善悪を決め込むことです。〟


という言葉を再度思い出し、実践する。


もう、額縁は信じない。

それぞれの兄弟に同じ神の聖性だけを観る。

兄弟がどんなに闇の額縁を主張してきても、

全く同一の、完全に罪のない聖性が、

圧倒的な強さで輝いている。

だから、額縁の兄弟がどうであれ、僕は兄弟を赦す。

兄弟の背後で輝く聖なる光を認識すること、

それが、聖霊と共に観る、ということなんだ。。


元々実在しない闇は無いと認識されることで消える。

実在の光は認識されることで強さを増す。


もう、その人その人(その自我その自我)に合わせて、

異なった方法で対処しようとしなくてもいい。

ひとつの対処法、ひとつの聖性だけを観る。

そうすると、兄弟は闇から出てくるだろう。