↑そして誰もいなくなった…。
今日の香港の気温は20℃。すっかり秋めいてきた。
ここ数日、加藤三代子氏の第二弾DVD、
『思考の逆転』を見て過ごしている。
なかでも、
自己概念A、B、Cの解説はとても解かりやすかった。
投影の元ネタを送り出している自己概念Aと、
普段、自分だと思っている肉体としての自己概念B
そして、他者として投影している自己概念Cの間で、
唯一これが自分だと認識できている自己概念Bが、
とても重要な役割を果たしていると実感した。
肉体として毎日生活している自己概念Bの自分が、
確固とした意志をもって聖霊兄貴と繋がり、
他者(自己概念C)の無罪性を認めることで、
自己概念Cを背後の自己概念Aへと返してゆける。
そうやって自己の中へと統合された他人格を、
聖霊兄貴が消去していってくれる。
と同時に、
これまで、原理としては理解していなかったけれど、
すでに、これと同じことを自分はやってきており、
改めて、自分が正しい聖霊の軌道に乗れていたことを
確認できたのが何よりもうれしかった。
↑海坊主総経理とインド料理を食べに行く。
僕ら以外、店内は全員インド人だった。
話は変わって、ここ数日、
なぜか北朝鮮のニュースばかりが目につく。
何気にテレビを付けたり、ネットニュースを開けば、
あの正恩氏のアップが、ぼてーん、と出てくるのだ。
まあ、僕達が見ている偶像(人、物、境遇、感情)が、
全て神との関係性からなるパロディだとするならば、
北朝鮮の金正恩ほど、今の僕たちと神との関係を
如実にパロっている姿はない、と思うのだ。
神から攻撃されるという恐怖から、粛清、核、暴言、
とありとあらゆる狂気で、神と駆け引きしようとする。
自暴自棄のあまり、多くの敵と見なした兄弟を殺し、
それでも「俺を愛せ!」と、独りぼっちで愛を叫ぶ姿は
僕らの父に対する関係性そのものではないか。
神から離れてしまった、という巨大な後悔からくる
全世界の兄弟たちの密かな神への罪悪感が、
地球のある一点に凝縮し、象徴とされる偶像から、
あらゆる恐れと憎悪のマグマが噴出する。
彼はある意味、皆が密かに心の中に隠している、
死ぬほどおぞましい部分を一身に背負って顕れた、
いわば僕らの分身であり、自分の心の一部なのだ。
なので、愛を叫ぶ偶像の彼を無罪とするのではなく、
兄弟としての彼の聖性に対して無罪を宣言する。
偶像の彼を、今後どのように導き、気づかせるかは、
聖霊兄貴の仕事であり、罰を下すのは僕らではない。
と、そんなこんなで、今日、久々に佛山へ行って来た。
だだっ広い工場にふぁちゃんと海坊主総経理が二人、
財務室と総経理室に分かれて仕事をしていた。
昼から、僕の人民元の個人口座を開くために、
ふぁちゃんと一緒に、地元の工商銀行を訪れた。
いま中国では、タクシーを呼んだり、支払いをしたり、
様々なサービスが、WECHATなどを通して行われる。
お店の予約も国内の専用アプリで行われるため、
上海などの出張では不便この上なかった。
というのも、これらの支払い機能を使おうとすれば、
あらかじめ、中国の銀行で開設した口座番号と、
国内で取得したケータイ番号をSNSに登録し、
互いにリンクさせておく必要があるのだが、
外国人は個人で自由に口座を開けない上、
ケータイを持つにも保証人が必要となるため、
僕のような出張で訪れるだけの外国人にとって、
なかなかハードルが高いのだった。
まず、中国移動という電話会社へ赴き、
ふぁちゃんに保証人になってもらって、
1500円でSIMカードを購入した。
国内かけ放題と、4Gが付いて月額1000円。
とりあえず1万円をチャージしてきた。
それから、工商銀行へ行き、
カウンターで口座開設フォームに記入をする。
すべて中国簡体字で書かねばならないので、
香港の繁体字に慣れている僕は何度も書き間違え、
そのたびに何度も書き直しをさせられた。
やっとフォームを書き終えてカウンターへ提出すると、
今度は所得税支払個人識別コードが必要だと言う。
そんなの、中国に住んでないのにあるわけないよ、
とグダグダ言っていると、カウンターの男性が、
適当に書いとけば分からない、と耳打ちしてくれ、
適当に書いて出したら本当に口座が開設できた。
そうして、
中国の個人口座とケータイ番号をゲットした僕は、
早速、以前使っていた古いiPhoneにSIMを入れ、
海坊主総経理にWECHATを設定してもらった。
そして、今日体験した一連の夢の出来事を終え、
ある〝達観〟が起こった。
もう本当に、これ全部夢で、幻想で、ウソなんだと…。
でたらめを真に受け、本気にする必要もないのだ。
たとえ腹が立っても、騙されても、悲しくても、
それはでたらめな夢で、はなから無いものだった。
そう心底思えた瞬間、
たとえ、何か重大だと思えるような事件が起きても、
それも夢で、でたらめに顕れては消える妄映なのだ。
そう、心底理解が起きた瞬間、
現実に対するシリアスさが消え、
楽な気持ちで周囲を赦していられるようになった。
また逆に、楽しいことは思い切り楽しめる。
だって、これは、神の子の聖性とは何ら関係のない、
でたらめな幻影に過ぎないのだから…。