「私、神様大好きだもん。恐れるわけないよ。
悪魔だったら怖いけど…。」と、
大概の人はこう反応してしまうのではないだろうか。
だが、例えば、
突然、誰かが猛スピードで駆け寄ってきたら、
ハッとなって、即座に身をかわすだろうし、
カフェなどで、隣の人のこぼした飲み物が、
自分の服にかかったら、反射的に立ち上がり、
慌ててナプキンを手に服を拭きまくるだろう。
また、汚い恰好をした変態っぽい人が隣に来れば、
瞬時に危険を察して、すぐにその場を離れるはずだ。
そして、それが、神を恐れている、ということであり、
神への恐怖がこの夢の世界に投影された結果である。
ただ、誤解を避けるために言うならば、
誰かが突進して来ても避けてはいけない、とか、
服にコーヒーをかけられても慌ててはいけない、とか、
どんな変な人がやってきても、それは神なのだから、
全て受け入れろ、と言っているのではない。
カタチのレベルでは、普通に危険を回避するべきだ。
向こうからこちらへと何かが近づいてくる状況下、
例えば、とても緊張する会議の日が迫ってくるとか、
みんなから非難の矢が飛んでくるとか、
後ろから突然声をかけられるとか、足踏まれたとか、
そういうシチュエーションに遭遇したとき、
本当は、神(ハート)が駆け寄ってきているのを、
何か怖いものが襲い掛かってくるように、
エゴがハートを歪め、錯覚させて見せている。
そのことをまず自覚する。
自分は今、恐怖を通して神を観ているのだな、
と、認識してみるのだ。
僕はこれを〝神からの最後の一歩〟
を受け入れるための予行演習と捉えている。
なぜなら、毎回、僕たちがあの世へ戻るたびに、
神が〝お帰りぃーっ!〟と手を広げてやってくるのを、
怖いと感じて、反射的に拒否し続けてきたのが、
この世では〝何かが駆け寄ってきて咄嗟に逃げる〟
という行為に反映されて顕れているからだ。
なのでこれは、僕たちは父が大好きだということを、
無意識のレベルで受け入れてゆく練習だと思っている。
そうやって、本当はどうなのかをちゃんと見てゆくと、
こういった恐怖を投影するような出来事自体が、
現実レベルでも起こらなくなってくる。
僕は以前、朝の通勤電車に乗っていると、
やたら前の人の鞄が自分にあたりそうになったり、
ぶ厚いリュックを背負った人の背中が、
ぐいぐい自分に押し付けられてきたりして、
毎回毎回、イラッとしながら赦していたのだが、
ある日、
「ああ、これって、神が好きだよーって、
僕に向かってやって来ているのを、
僕が勝手に、嫌悪するものとして、
認識させられているだけなんだなあ。」
と、気づいては赦し、気づいては赦し、
を繰り返しているうち、なぜか不思議なことに、
一切、そういう行為に遭遇することが無くなった。
単に気にならなくなった、というのではない。
そういう行為をする人自体が現れなくなったのだ。
例えば、
すごく悲惨な境遇にいる人が僕のこの文章を読み、
「じゃあ、今の私と同じ境遇になったとしても、
同じことが言えるのかっ!」
と怒りが込み上げてくることもあると思うが、
明け渡して取り消しが進んでくると、
そういう悲惨な境遇にはならない、と分かる。
(まあ、なってもいいのだが…。)
というわけで、
明日から毎年恒例の日本一時帰国である。
今回は4月8日までの16日間の里帰りとなる。
今年は小説『ジンジャー・タウン』を、
奈良ホテルにお籠りして仕上げようと思っているが、
どうか浮見堂の桜が咲いてくれていますように…。
また、今回日本でやることも目白押しで、
・門真試験場で運転免許の書き替え(期限切れの為)
・歯のブリーチに行く(仕上がりは後日公開だよ)
・新しいスーツを買う(なぜなら、痩せたから…)
・奈良ホテルにお籠りでジンジャータウンを仕上げる
・近所のゴールドジムで金剛筋シャツを着て筋トレ
・近所の土手で一日中桜を満喫(咲いてたら…)
・気に入った黒革ベルトの腕時計を探す(ネット不可)
とまあ、色々と幻想レベルでの計画を練っているが、
とにもかくにも、聖霊兄貴と一緒に、
春真っ盛りの日本を満喫するつもりである。