分離なんか起きていなかった、という体験は、
僕にたくさんの気づきと、新たな感慨をもたらした。
特に〝分離なんか起きていない〟という場所から、
〝世界に反応しない〟を実践してゆくにつれ、逆に、
自分がいかに分離を信じていたかに気づかされる。
というのも、
沖縄へ向かうべく、空港行きの電車に乗った時のこと。
なんかカバンが軽いなあ、と思っていたら、
ノートパソコンを家に置き忘れてきたことに気づいた。
はっとなって、発車寸前の電車から飛び降りた。
そこからタクシーに乗り、家へと向かった。
パソコン忘れた→動揺→電車を飛び降り→家へ向かう
その間の行動はほとんど、自動反射的無意識状態で、
タクシーに乗り、しばらくした頃になってようやく、
「あれ?分離なんか起きてないのに、メチャ反応してる。」
と、ハッと我に返った。(笑)
むしろ、パソコンなんて無い方が、PALM CHURUCHで、
より深く自己の内側と向き合えるのに、いつもの癖で、
ビジネスマンが出張でパソコンを忘れるなんてあり得ない
という設定の自分が反応してしまった。
と、ここで思った。
たとえ、分離なんか起きていなかった、という、
体験から来る真の理解が起きていたとしても、
やはり、バーンッ、と自我に針が触れる瞬間がある。
そういうときは、きちんと自分の中の動揺や反応を認め、
決断の主体へと戻り、分離は起こっていなかった、
故に、結果としてのスクリーンに映る映像はいじらない、
という赦しを行なう。
そうやって、24時間エゴに警戒してゆくことで、だんだん、
分離は起きていなかった、という真理がなじんでゆき、
ベールの向こう側のハートを感じられるようになってくる。
要するに、理解が起きたから即上がり、ではないのだ。
この〝パソコン忘れ動揺ちょちょ舞い事件〟を、
PALM CHURUCHでもりGさんにシェアしながら、
突然、自分を動揺させるような事が起きた時、
ただそれが起きているだけだ、とか、分離は起きてない
とか、この世界は幻想で無なんだ、と、
安易に納得させることなく、
先ずは自分がいかに動揺しているかを認め、そこから、
大元に戻って赦してゆくことはとても大切だ、
と話しあった。
そして、上記のようなレッスンを重ねてゆくことで、結果、
この〝絶対に幸せになれないゲーム〟から完全離脱し、
実相世界へと移行していくのだろうな、と感じている。
そんな感じで、いま、沖縄にいる。
気温は摂氏22度。Tシャツ一枚で過ごしている。
初日の今日は、読書をしたり、瞑想をしたり、
散歩をしたり、と、ユルユルな一日だった。
なにか疑問が浮かんでも、目の前の兄弟から、
即行で答えが返ってくるのがうれしい。
夜、決断の主体へと戻り、そこから聖霊に繋がり続ける。
そこで、あがりのない人生ゲームを放棄することを
選択する。