〝分離は起きてない。
分離など一切起きてなかった。
僕たちは、天国から離れてなんかいなかった。
僕たちは、ずっと父の中にいたんだあーっ!〟
天国(神)とは一度も離れたことなどなかった、
故に、この世界も存在せず、本当ではなかった。
本当ではない世界に反応する必要はなく、
そして、世界に反応しないことこそが、
沈黙する、ということの真の意味であり、
そうすることで、自我の妄映は消え失せ、
忘却のベールが取り払われた後の天国(ハート)に
触れることができる。
神(天国)と分離など起きていなかった、
という究極の〝体験〟が起きてしまった。
もう、僕は世界に反応しないし、する必要もない、
それが、沈黙であり、静寂であり、いまここだった、
と〝体験〟として理解したのだ。
そして、その静寂から、直(ちょく)でハートに入ってゆく。
実のところ、〝その体験〟が起こるまでの2週間、
ずっと、ハートと向き合っていた。
まるで修行僧のように、きつい時期を過ごしていた。
その間、凛としてぶれのない師のガイダンスのもと、
分離は無かった、という最終的で究極な理解に至った。
香港を離れるのが寂しい、などと言っていた1カ月前が、
まるで遠い昔に見た夢物語のようである。
分離は起こっていないことが、
決定的事実として認識されてくると、
現実諸問題にフォーカスできなくなる。
世界に反応できなくなってくるのだ。
逆に言えば、今どんな状況であったとしても、
事は一瞬にして変わる。
なぜなら分離は起きていなかったのだから、
もう、それを実在させるのをやめるのだ。
分離が起きてなく、罪もなく、世界も無かったのなら、
あるのは神しかない。それが〝God is!〟だった。
世界に反応しない、そこから動かず、留まり続ける。
それが、自我に警戒する、ということである。
これらの体験を、文章で表現するのはとても無理である。
それでも、ただひとつ言えることは、
真実の理解が起こったことと、
それを実践し続けることとは、全く別の話である。
今後は、分離は起こっていなかった、世界に反応しない
という事実を実践し続けてゆくことになる。
そうすることで、
これをただの体験に終わらせることなく、
ベールの向こうの真実の光(ハート)を
見つめてゆくことができる。
最終的には、ベールの向こうを目撃することこそが、
決定的に重要であると感じている。
というわけで、今日から沖縄である。
もう誰かに背中を押してもらう必要はなくなってしまった。
聖霊の化身から、どっすーんと猛タックルを食らった末、
あちら側へと強制移動させられてしまったから。(笑)
暖かく、ゆったりとした沖縄の時間と風土の中で、
分離は起こっていなかったという真の体感を、
ゆっくりじっくり、なじませてゆこうと思っている。